2009年2月アーカイブ

 ジャズ・ピアノを習い始めた。
 練習は面白いが、レッスンの伴奏では理論的には嘘ばかり弾いている。けれども、歌の伴奏やアンサンブルでは、はじめにリズムが保てないとお話にならない。コードの積みなどを考える、その一瞬が命取りだ。

 ところで、昨日、レコーディングに来た加藤崇之が、「このところ、決まった曲を弾いていると変な気持ちになってくる」と言い、決まっていないレコーディングのソロでは激しく弾きすぎて右手の指の皮がむけ、頭を振りすぎて2回もヘッドフォンを前方に飛ばしていた。
 そのソロ部分は、ほとんど1発のロックであり、その中でいくらでもアイディアが沸いて出てくる加藤崇之のギターなのであった。私は、彼は日本のサンタナだと思っている。
 そのように、何をしても良いという状況の中で、リズムだけが心地よく流れていると、いくらでもソロができるものだ。

 「誰かみたいにってんじゃなく、何風でもなく、もっと好き勝手に、自分出して思いっきりやってくれ」、と言われてどうして良いか分からず、ライブの休憩中に泣いた若い頃が嘘のようだ。
 今では、好きなようにやる以外、あまり音楽がしたくない。決まった曲をそれらしく演奏すると、何だか魂を売ったような気持ちにすらなってくる。

   自由であることは、社会生活の中ではある種の「凶暴性」を帯びた生命である。厳しく社会性を重んじなくてはならない場面では、そういう人が居るとやっかいである。何を言い出すか、やらかすか、ハラハラする。必要以上に声量がある、というだけで暴力的である場合すらある。しかし、それでこそ、芸人、いや芸術家である。人と同じであるなら、あるいは意外性すら携えられないのなら、芸術家として存在する意味など無い。

 自由とは、その境地になってみて初めて醍醐味を味わえるものだ。自由になるにはなまなかでない修行が要る。自由にやっている人で、「何もしないうちに私は自由になったんです」と、しゃーしゃーと言える人は居るだろうか。私は、とても狭い分野でしか自由を味わっていないけれど、それでも、その境地になるまで死に物狂いだった。

 努力とかいうものではなく、そうせずには居られないので色々頑張ったのである。時には、自分が病気であるような気さえした。目が見えなくなりそうに疲れていても本を読んだし、書いたし、色々なことを調べて覚えて、気が変になりそうなくらい考え抜いた。自分の頭の悪さや頑固さや要領の悪さにがっかりしながら、でも絶対に止められなかったのだ。どうしてだか、そうしていることで私のついてない人生が救われたのだ。ついてなくても、好きなことについては徹底的にやり続けてきた。それは、きっととても幸福で幸運なことだ。

 私は、本当に極端が好きだなぁ。極端にたくさんのことを、極端にたくさんの時間をかけて、やり続ける。そうすると、じわーーっと快感が沸き立ってくる。最近は、誰に認めて貰えなくても、自分一人でもじわーーっと楽しい。楽器を弾いても歌っても読んでも書いても楽しい。じわーーっと、ね。 

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