2009年1月アーカイブ

 横尾忠則は、「Y字路」の絵をライフ・ワークとしている。
 先週は、毎朝10時からNHKで、「人生の歩き方」というインタヴュー番組をやっていたので、楽しみに見ていた。
 横尾忠則の略歴。
 わがままだった子どもの頃から、美大受験し損なった話、グラフィック・デザイナーとしての大活躍、インド行き、そして画家として生きる現在と自身の年齢についてなど、自然体とはこれだ、と思わせる軽やかな話が続く。
 軽やかに話す内容は、もちろん、密度が濃いのだけれど...。

 さて、Y字路は、不思議な空間だ。
 狭く、危ない感じがする。
 直進しようとした車が、うっかり突っ込みそうな予感。
 両脇を、路に挟まれた正面の家の窮屈そうな佇まい。

 横尾忠則の絵が好きと言うよりは、人が好きだった。
 ちょっととぼけていて、でも、悲劇的な顔つき。
 運命にこづき回されて、もうどうにでもして、といったような。
 72歳だが、赤いパンツに緑のジャケット、パナマ帽も似合って、異常に若い。

   滝の絵はがきなど、彼のコレクション好きには、いつも首を傾げてきたのだが、この番組を見てY字路に執着せざるを得ない無意識の存在が伝わってきた。
 自身では、なぜこんなにY字路を描こうとするのか、分からないらしい。
 人が本当に打ち込む事柄には、現実的に表現できる理由は無いことが多い。
 各々の無意識は、底流を共にし、混ざり合い、影響し合う。

 木曜日、渋谷に出た帰りに、ふと思い立って友人を食事に誘ってみた。何を食べようか、メールするうち、その方の義弟がやっている料理屋さんに行くことになった。
 電車を降りて、西武柳沢の駅から、寒風の中をどんどん行く。
 共通の知り合いが胆石を患って入院した話などしながら歩いて着いた店は、実際、絵に描いたようなY字路の中央にあった。

 だが、それに気がついたのは翌朝になってからだ。その日は、横尾忠則の番組の最終回で、公開制作という観衆を入れてのパフォーマンス、120号のキャンバスにY字路を描くという内容だった。日本のどこかに、必ず在りそうなY字路。ところが、左の路を進むと、彼方に古代ローマの市街がある。
 その場面を見ながら、あっ、と気づく。
 昨日の店は、Y字路にあったよ、と。 
 渋谷に出た日は、ブック・ファーストか、HMVに寄ることにしている。その日は、ブック・ファーストの方で、吉本隆明と中沢新一とガルシア・マルケスなどの未読のものを買い、これらを週末の読書に充てることとした。
 その帰りに、Y字路の件があり、いよいよ私も現実界からお役ご免、形而上に浮遊せよとのお達しと思っていたところに、さらなる共時が起きた。

 私の夫は、岩手県の花巻市出身である。言わずもがなだが、宮沢賢治の故郷である。両親健在の頃、子どもたちをつれて花巻市に帰省の折は、必ず「賢治記念館」に寄った。
 セロ弾きのゴーシュのチェロ、様々な童話のスライドショー、天体観測の部屋などを楽しんだ後、広いロビーから雑木林の木々を眺める。
 夫は、賢治に寄せるCDを制作して、記念館に置いていただいている。そして、夏休みに行われる、「賢治祭」にも何度か出演した。
 花巻市には、今も夫の実家があるのだ。

 中沢新一は、いつからか、多摩美術大学の中に「芸術人類学研究所」を開いて、そこの所長になっていた。私は、その存在がとてもとても気になって、内容もわからぬまま、ついに会員となっている。
 一体、こんな素敵なアイディアを思いついたのはどこの誰なのだろうか。
 多摩美が思いついて中沢氏を招聘したとすれば、その秀逸なアイディアの主をぜひとも知りたいものだ、と思っていた。
 私の通う、池尻大橋の「PAS心理教育研究所」もとても素敵な研究所だけれど、八王子の「芸術人類学研究所」も、すごい。

   その謎が、今回購入した「ミクロコスモス �」の巻末にあった。その研究所は、中沢氏の発案からたった5分で開設が決定した場所だった。
 そんな絵に描いた餅のような話が実現するわけがない、と思いながら、しかし何気なく夢を語ったら、すぐにOKが出た、というのだ。
 それは、私のスタジオのでき方とも似ている。
 私も、軽い気持ちで、レコーディング設備を付けて貰えるなら、会社に参加しても良いよ、と言ったのだった。

 業績を着々と積み上げてきたと感じられる中沢新一氏は、自らの人生を挫折の連続といい、そのあまりのついてなさに同情した神様が、その研究所をもたらしてくれたのではないか、と書いている。
 業績だけ見れば、私もそう見えるらしいが、同様に挫折の連続だった。挫折の中の一筋の光明だけが、わたしを諦めさせなかった。その光明は「人類に必要な美しさ」を求めることだった。
 自らは挫折多く、割を食ってばかりいる、いただけない人生が、他人から見ると成功に上り詰めた、ツキに恵まれた人生と映るらしいことも理解した。
 中沢新一が敬愛する偉大なる思想家たちも、おしなべて挫折の人生を歩んでいる、と言う。ゾロアスターやイエス・キリスト。唯一、その一人にあげている日本人が、宮沢賢治である。
 その文に触れた時に、また、私の中でシンクロニシティが生まれる。
 田舎の家をどう使うかが、朧気なヴィジョンとなって立ち上がる。その家にフィットする人々と、物語。

 花巻は、遠野にも近い。そこには、カッパやケサランパサランやおしらさまがいる。
 ずっしりと重たい空気。縄文から続く農耕の神様のいる場所。
 私は、狩りをする蝦夷の地の、熊に跨る負けん気の人物で、ずっしりと土を耕す人々とは相容れないが、いずれにしても縄文の、土に馴染んだ生き物である。心の底に降りてゆけば、黄泉の国ならぬ、共時の泉に突き当たるのだ。 
 昨年は、ひたひたと世界変化の波が押し寄せた年でした。
 私が生まれたとき、すでに世界ナンバーワンだったアメリカの、残念な部分が浮き彫りになりました。
 でも、それ以前に、ソ連が崩壊してベルリンの壁が崩れたとき、私は、ちょっとだけ、自分が意味なく左寄りを宜しいと感じており、その根拠は何もない、という事実に気づきました。
 その時、左だとか右だとかの思想的刷り込みが、いつどうやって為されたのか、少しだけ考えました。

   昨年読んだ本の中で、印象的だったのが「対抗軸」という考え方です。
辻井喬と上野千鶴子両氏の対談「ポスト消費社会のゆくえ」(文春文庫)という新書の中です。
 社会主義は、人間の生き方にはフィットしなかったけれど、対抗軸として資本主義社会に一定の歯止めをかけていた、ということを、私はほとんど意識していませんでした。
 そして、幼児を育てながら、自分が左寄りであることの根拠に思いを致していた頃のことを思い出したのです。

 世界観ということで言えば、大学のゼミでは「ユートピア思想」というものをやりました。ユートピアは可能か、あるいは有効か、という問いです。
 その流れで、精神医学に足を踏み入れ、言語学や思想史の端緒に触れたのです。ただし、未熟すぎた故、全く学問をする基礎がありませんでした。
 そのやり残し感を引きずって生きながら、ある日、臨床心理学の研究所の門を叩くことになりました。大学院や実践の場で臨床を学ぶ人々に混じって、自分の中に考え方の芯を求める学びに専心しました。

 ここでの学びは、10年以上経つ今でも続いています。

 さて、これから、何をやるべきか、という現在です。
 50年以上、人生と格闘して得たことは、自分には結婚や子育てがもっとも重大な事項であった、ということ。
 大変な勢いで仕事をしてきましたが、それはやはり人として生きる上での手段だ、と思えます。
 かといって、毎日夫や子どもたちと濃密に付き合っているかと言えばそんなことはなく、どちらかといえば、仕事先の関係者と過ごす時間が長い日々です。
 仕事は、子どもの頃に夢見たことが嘘のように全て実現でき、これ以上を望むとすればさらに勉強しなくてはなりません。

 その勉強を始めるのが宜しいのか、それとも、自分にご苦労さんと言いつつ、料理や寛ぎに浸るのが宜しいのか、今年の前半はそのことについて自分と対話しようと思っています。

 1日12時間、休みは月に1回というような、アホらしい働き方は、これからはしないだろうと思います。というか、できなくなってしまいました。それにも、はっきりと理由があるのです。

   年初に掲げるテーマの善し悪しの判断はまたいずれということにして、とにかく、気持ちに少し余裕ができました。
 自分のために生きる、ということを、僅かばかりですが、理解できるようになったようなのです。

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