エッセイの最近のブログ記事

誰かの欲望を叶えるために生き始めると、こちらに向けられる欲求はどんどんとエスカレートする。
体育会系のコーチが、才能のある選手たちに無理なトレーニングを課して、今よりさらによい成果を出させそうと目論むのが具体例だ。
選手たちは、しばしば、彼らの欲望に応えて疲れ果て、故障したり、心を病んだりする。

面白いのだろうと思う。
もっと勉強すれば、あるいは、もっと練習すれば、成果が上がるよ。
もっと良い結果がついてくるよ。
そう励ましながら妄想するのは面白くて楽しいに違いない。
だって、要求する彼らの中に、フィジカルやメンタルの現実の追い込みは起きないのだから。

彼らの妄想の中では、努力していることへの快楽、楽しさしか思い浮かばないのかも知れない。
それらはドラマや劇画の中で、楽しいこととして描かれている。
そのフィクションに悪のりするのは、確かにとても面白い。
問題は、その面白さを自分のために採用するのでは無く、誰かに対して投げるという点だ。

多くの場合、無理な注文をする人々は、現実的な努力をしたことが無い。
自分が誰かに対して望む「努力」という事態の、真実の重さや内容について、確かな具体像、体感を持つことができていない。
知らないから気軽に申しつける。
「もっとこうすれば良いのに」

ひとつことを極めるとき、前提として主体的に選び取ったものである必要がある。
他者から押しつけられたものに対して、人並み外れた努力ができることは稀だ。
好きこそものの上手なれ、という良く言われる次元でも無い。
好きに加えて、生物学的な向き不向きが影響する。
誰かには簡単にできるのに、自分にはできないことがある。
その逆に、他の人々には難しいことらしいが、なぜだか自分には楽にこなすことができることもある。
その、自分が他の人々より楽にこなせることを選び取り、深めて、本当の難しさをとことん知り、さらに飽くことなく時間をかけながら、自然体となるまで身につけていくことこそ、努力だ。

人はひとりずつ違う。
驚くほど。
その違いを、自分と周囲とが見極め、受け容れ、しばしば点検しながら丁寧に歩む以外、良い生き方を選び取る術は無い。

けれど、その体感をすっ飛ばす人々がいる。
見るだけ、空想するだけで、大変さを知ることはない。
そのためか、自分の不快には大層敏感で、耐性も低い。
キレやすく、時に、不快の責任をこちらに押しつけて、言い募る。
いたわりやねぎらいはしなくとも、罵り言葉なら、唖然とするほどスラスラと口から流れ出る。

「なぜお前は、こちらが思うように動かないか?
それは嫌がらせか?
こちらの要求に応えないのは、愛情欠如なんじゃないか?
そんな態度で良いと思ってるのか?
恩知らずか?」

その口からすらすらと流れ出す罵り言葉は、全て、こちらにしなだれかかるほどの甘えでしかないのだが、当人は、こちらを断罪でもしているかのように高揚して、得意げな顔さえする。
その表情は、言葉で痛めつけることで人を支配したい欲望にまみれている。

罵る人が家族にいると、良い人は病み、駆逐されて、家庭そのものが壊滅する。
家族の中にたったひとりでも、無知と甘えとにまみれて、それに気づけない人がいるだけで、家庭は無残に破壊される。
普通に理解力のある人は、自分の心を守るために無口になり、閉じこもって悪口を避けたがるので、事態はさらに悪化し続ける。
戦えば良いと思うだろうか?
テレビのドラマか何かのように、ちゃんと話し合えば良いとか、思うだろうか?

「話し合い」という、フィクショナルなデマゴーグ。
戦いは、同じルールの下でしか成立しないということを知っているだろうか?
同じ言語を話していても、全く言葉の通じない人々がいるということを、誰もが日々、様々な場面で経験している。
それを知らない人だけは、お茶の間ドラマのように予定調和な成り行きを妄想するかも知れない。

良い映画には、その絶望的な困難を丁寧に描いているものが多い。
そして文学も。
つまり、人間とは、これらの困難について考え考えしながら、身を守り、死なないように、そろりそろりと生きている存在なのだ。

子供の頃から音楽と本が好きで、進路を決める際にも、音楽専科に進むか、文学部に行くか迷った。
バイオリンの先生や高校の合唱部の顧問の先生は、音大行けるでしょう、と言って下さった。
小学校の時分に国語の研究授業が有り、太宰の「走れメロス」を読み込んで感想文を書くという機会があった。その時は、担任では無い偉い先生が来て授業をして、たくさんの教育関係者が見学したのだが、私ともうひとりの感想文が選ばれ、朗読した。その先生は、特に私のものが気に入ったらしく「ぜひ、文学にお進みなさい」と仰った。

結局、音大のクラシックの厳しさにはついて行けないだろうと考えて、文学部を選んだ。
大学のゼミの先生は、ゼミ旅行の際に私が書いたものを気に入ったらしく、いつも、「論文ではなく散文を書いてこい」と注文され、卒業時には研究室に残って文学をしてはどうか、と誘って下さった。

しかしながら、私は音楽の方に心が動き、散文を書き散らしながらも、仕事は音楽にした。
子どもを産んで音楽を休んでいた間に、フリーライターのバイトを頼まれ、やってみたらさすがに上手だったらしく、次々と仕事が舞い込んで、子育てしながら死にそうなくらいたくさんの売文を書いた。著書が出たら、フリーライターの双六はそこで上がり、と言われるくらい大変なことらしかったが、バイト感覚でやりながら、著書やゴーストで書いた単行本は10冊以上ある。

そうしているうちにまた、音楽の仕事に舞い戻って、現在はジャズボーカリストで、ボイストレーナーとかジャズレーベルのプロデューサーとか音楽ライターもしながら、それらのための会社までできた。
どの仕事も好きかも知れない。

知れない、と言わざるを得ないのは、じつは本当に好きなのかどうか良く分からないからだ。
子供の頃の選択肢としては、他の勉強よりは、楽器を弾いたり歌ったり、本を読んだり雑文を書くのが好き、と言う気持ちだったのだが、それが全て仕事につながってしまうと、好きなのかどうなのか良く分からなくなる。

私の人生は大分特殊で、経験とか境遇というものが、ちょっと奥様たちの集まりに於ける茶飲み話などでは口にできないくらいシビアで、そのために日々、身の置き所をどうして良いのか分からない感じになっている。
好きだったはずのものを、全て趣味に留めず生きるための生業にしたのは、野心などでは全く無く、唯々、食べていくためだった。
女性の友達というのは、たいてい良く喋るものだが、私はあまり口を開けない。
いったん話し始めてしまったら、どの人に対しても負荷をかけてしまうような話をせねばならず、それなら黙っていた方がマシだろうと、口をつぐんでしまう。
大変な事態がひとつふたつならまだしも、いくつもあって、それをどうやって切り抜け、生き延びてきたのかすら、自分にも良く分かっていないのだ。

もの凄く大変なことだらけだったなぁ、そして今も大変だし...、と思うと、軽々にボランティアとか寄付とか同情とか思いやりとかには近づけなくなる。
なぜそうなのかは、自分でも良く理解できていないが、よっぽど大変な人は、まず自分の面倒を見なくてはならないはずだと、どこかで思っているのかも知れない。

私の周囲には、なかなかおねだり上手な人たちがいて、「これこれをして欲しい」というオファーは良く受ける。それが仕事につながったり、自分の興味深いことであれば一生懸命にやるのだが、その逆として、私から「これこれをして欲しい」とお願いすることはほとんど無い。して欲しいことはあまりに基本的、根源的なことで、お願いして断られるとこちらの落胆や疵が大きすぎるからだ。意を決して口にして、断られ、打ちのめされたこと数知れず。
私は、よっぽど理不尽なことで無い限り、何でも頼まれたらしてみよう、取り組んでみようというタチなので、断られるとびっくりする。そんなに私を楽にさせるのがいやなのだろうか、と悲しくなる。けれど、私の人生はいつも、そういう巡り合わせに終始している。

時々、自分の人間性のどこかに欠落があるか、病的な要素があって、それでこんなに困難なのかと考える。病的なのは解っている。家族自体がそうだったのだ。けれど、そこにとどまらないように、人について学び考え自分を変えもしながら懸命に生きてきた。神経症からは脱却できたと思うし、なかなか大変な仕事もこなしてきたと思う。何より、子ども3人をほとんど自力で育て上げた。

それでも、まだ自分に不満が残る。もっと闊達で可愛げがあり、楽しい人になれないものか。表情が無いとか、堅いとか、暗いとか言われずに済む人になれはしないか。

そろそろ、また書いておきたいのかも知れない。どのように育つと、私のような人になってしまうのか。どのような疵や負荷が、人を苦しめ続けるのか。それでも、人は成果を残すこともできるし、それなりの感動を分かち合うこともできることを、同じように疵や負荷を受け取ってしまって、生き辛いと苦しんでいる人に伝わるような何かを、書いておきたいのかも知れない。

私は幸いに、家族にすら、その苦しみを投げつけないで済んでいる。それを可能にできるほどの力を持って生まれたことを、いつも感謝している。

話題って...?

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体質的にお酒が飲めないので、「酒場での付き合い」ということをしない。
呑む友人に誘われて酒場に行くこともあるが、酔っ払った人々が大声で喋り倒す横で、素面の私は暇なままボーッとしているだけになる。
呑まない友人たちとは、ただ話すためにつるむという機会が極端に少ない。
毎日のようにライブをしている場合は、行く先々で人に会い、話すだろうが、私はそんなにライブもしないので、たいてい独りでボーッとしている。
やることはたくさんあり、レッスンやら楽譜書き、曲覚え、練習などしていれば、日々は過ぎゆく。本も読むし、テレビも観るし、絵も描き、曲も書く。
忙しいようだがそれでも、呑みたい人々が酒場で過ごすだろう時間帯は、家でボーッとできるのだ。

話は変わるが、このところ、何となく虚しい。
大地震の前に、泣くほど虚しい、不安な気持ちになった経験があるので、もしかして地震来るのかなぁ、と少し心配だ。
地震の予感では無いとしたら、この虚しさは一体何なのだろう。

私にはいつも、存在していてすいません、という気持ちがある。
自分のために、どなたかが不自由されたり、押しのけられてはいけない、という気持ちがある。
私が日頃している活動の様相から推し量って、相当にオレサマな押しの強い人だろう、と思われる節もあるのだが、じつは人前に出ないで済むなら出たくない引っ込み思案だ。
こういう性格だと、人を遮って話すパッションも無い。
酒場では、道端の雑草である。
そういう人が人前で歌うというのは、いかがなものか?

昨日、友人が出演する芝居を鑑賞し、その舞台の後、今回の演目についてあからさまな話をした。こちらは、感じたことを小出しにし、なるべく良い点を上げようとするのだったが、友人の女優は、その舞台に関する自分の体験をあけすけに晒してくれて、そのお陰で私の感想は、なるほどと自分の腑に落ちたのだ。
話題とは、そういうものでありたい。
ギターの加藤崇之さんは、とても忙しくライブをし、絵を描いて、おまけにブログまで書いているのにも拘わらず、ときどき、私の歌やライブの内容について、丁寧なメールを書いてくれる。
その内容は、きつい部分もあるし、励まされる部分もあるし、納得できるまでたくさんのエネルギーが必要だったりもするが、それを契機として、はっきりと気持ちが変わる時がある。
話題とは、そうありたいものだ。

いつもどこかでうっすらと考えてはいるが、普段の会話にはあまり上らない、という種類の事柄がある。
そういう事柄を、互いに話しながら意識に上らせ、口に出し、再認識して行く。
自分の中に渦巻いていたものが、ある程度整理され、共感もされ、取り敢えずは片付く。
話題とは、大いに、そういうものでありたい。




人生の時間は長くて短い。
子育てしていた若い日々は、日が過ぎず、まるで永遠のように感じた。
この数年は飛び去るように早い。
一日の内容が薄くなると、速度が増すようだ。

私の住む団地は、8階建てのマンションが12棟ある。分譲で自主管理。
私も以前、管理組合の理事や修繕委員会などを経験した。

号棟ごとに棲む人の雰囲気が違っている。
私の棟は、目の前がテニスコートなので、テニスをする人が多く、いくつかのグループができている。ソフトボールをやるおじさんチームも、二世も参加の時代に入ってますます元気。
昨日、号棟の親睦会をやった。民生委員さんもうちの棟なので、彼から高齢化についてのお話。なんと720戸ある団地の居住者全員の平均年齢が70代に突入したというではないか。驚いた。
我が家が引っ越して来たのは、次女が生まれてすぐの1985年。その頃は、周囲の皆さんがばりばりの活躍で、3日にわたる盛大すぎる夏祭りまでやっていた。

昨日の参加者の最高齢は、91歳。お元気で声もはっきり。
それにしても、時は確実に過ぎるのだなぁと、しみじみ。
我が家の三人の子どもたちはみんなここで育ち、巣立って行った。
たまに戻って来ると、ご近所の方たちとしばしの挨拶。
「立派になったわねー」
ついこの間まで、ジャージに鞄の中学生だったのに、もうスーツを着ている。
お化粧している。そしていつか、子どもを連れている。

子育てが大変だった頃、三人は荷が重いと思ったけれど、いつの間にか何とかなっていた。
ご近所の皆さんにずいぶん救われた。
そして、ついに夫と二人だけとなると、いがみ合うのも阿呆らしく、何もかもどうでもいい感じである。
互いに愚痴っているのだが、じつは何も聞いていない。
何度同じ話をしても、聞いていないからしかめ面をするほどでもなく、ふんふんとただ相づちだけ打っている。
夫婦長年の格闘は、この頷きのためだけにあったのではないか。
きっと一人だと、愚痴も言わない。多分、笑いもしない。
夫でなくても、誰かと居るということは、そして、互いに何も聞いていないから腹も立たないような気の置けない誰かを得ることが、良いことのような気がして来た。

率直な物言い

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人は度々、「率直な人」を好きになる。
自分の心の中にある、言いたくても言えない本音を、さらっと口にされると、とても気分が良くなるからだ。
そしてこう思う。
「自分のごとく、周囲を気にして言いたいことも言えない臆病者には、こういうリーダーが望ましいのだ」と。
やがて、一定の人気やら支持を集めて「率直」な人は首長になったりするのだ。
しかし、率直であるということと、思想的に肯定できることとは、全く別のことだ。
率直な人は、彼の人格全体を受け入れて頂いたと思うあまりに、何でも思った通りに発言してしまう。そして「馬脚を現した」と評され、バッシングを受けることとなる。

この数十年で、世界中でもっとも激変したのは「個人」についての考え方だ。
長い歴史の中では、人と動物の区別がない時代もあり、自分のテリトリーの外の人々を家畜のように奴隷化した時代もあった。
そして女性は、長いこと多くの場所で、出産だけをする存在に据え置くために、教育を受けることも自己主張することも許されないで生きてきた。

人種や性別で差別されてきた歴史は、差別される側の人々には良く理解できている問題だ。足を踏まれたら痛いから。
しかし、踏んでいる側の人は、注意されないと分からないらしい。
差別意識というものは、1人の中で、様々なジャンルに及ぶので、よっぽど注意しないと気づくことができない。
その意識がどこで培われるかと言えば、家庭であったり学校であったりと、ごく身近な大人からもたらされる情報に依る。それを自覚していればこそ人は自分を正すために読書したり、外側の世界の様々な知見の人に遭ったりするよう心がけるのではないか。

政治家になって、多くの人の支持を受けると、人格全体を支持されたと思ってしまうのだろうか。「考え方」についての詳細な検分が為されないまま、ぺらぺらと浅はかな判断を述べてしまう。それは、世間に出現した当初に人気を博した「率直な物言い」という方法に違いない。それは個人的には気分の良くなる行動である。言いたいことを言い募って喝采を博す。

失言というのは、公的な場でそのような洗練を欠いた「個人」が出てしまうことだ。個人に戻った時、人は様々な趣味思考、時には嗜癖とでも呼びたいような性向を持つものだ。それは、非難されるべきものではない。完璧に清潔で政治的に正しい人格などこの世に存在しないから。けれど、点検は必要だ。

率直な物言いをする人を見て溜飲が下がる人は、気づかないでいるかもしれないが、周囲と共同できるよう、自己点検怠りない面を持つ。それは、良識とか常識と言われるものだ。ただし、維持するのは自分にとってなかなかの負荷でもあり、誰かが代わりに本音を叫んでくれれば、一時的なカタルシスになる。テレビには、そのためのタレントがたくさんいる。毒舌タレントは、綱渡りのように、バッシングすれすれの線を渡る。

タレントは良いよ、と思う。お笑いの人々は本来のトリックスターだ。
けれど、政治家についてはどうなんだろう。
どれほど日本人の民意が高く、お手本になる事柄の多い国であったとしても、首を傾げたくなるような知性、理性の政治家を支持し続けている。
これ。海外からはどう見えているのかな。
イタリアやフランスなど、ラテン系の人々は、女好きを首長にする傾向があるけど...。

日本人は、「困った政治家でもしょうがないや」と思いながら「自分たちだけはちゃんとやろう」と決意しているようだという分析を読んだことがある。それはとても腑に落ちた。
なぜなら昔から、どうしようもない父ちゃんを「まあ、良いところあるから」とお目こぼしして、しっかり家庭を維持し子どもを教育したお母さんたちが、日本を作ってきたような気もするから。
北海道の田舎から、わざわざ東京の大学に出てきたのには、密かな目論見があった。
私は、音楽、それもジャズをやりたかった。
私が上京した頃、成蹊大学は、ちょうどジャズ研ができて3年目くらい。そして、偶然にもその時代、そこには綺羅星のような才能がひしめいていた。
大学対抗バンド合戦で、早稲田、慶応を負かすくらいだった。
そのジャズ研の名は「Modern Jazz Group」、略して「MJG」という。

つい半年前、Facebook上にOBの非公開グループができていて、そこに招待されメンバーになった。
私は、プロになって数年で子育て休業に入ったため、後輩たちの動静を知らない。
歌手休業開けの12年前には、年齢の近いOBが集まってセッションを開いてもらい、その縁で、現在のスタジオ・トライブが立ち上がった。
けれど、それより下の世代となると、どういう方たちがいるのかすら定かでない。

参加してみると、FB上では、会ったことのない後輩たち元気にやりとりしている。
おまけに、少し落ち着き始めた年頃なのか、やたらと演奏したい風なのだ。
そういえば、私が復帰した年齢と同じくらい。
子どもも手を離れ始めて、昔の音楽への情熱が思い出される年頃。

セッションでもやればいいのに、と感じて開催を提案したら、ユニット活動をしている方たちから発表もしながらという提案があり、さらに海外にいるOBの帰省に合わせようということにもなって決定。
成り行き上、私の知っているライブハウスに声をかけた。
箱貸し料金ではなく、ひとり頭最低のチャージで貸してもらえまへんか?

お願いしたライブハウス、吉祥寺のFoxholeは、これまでもショップカードのデザインをプレゼントしたり、ミュージシャンを紹介したりのつながりがある。
幸い、無理なお願いを快く聞いていただけた。

それからしばらく、FB上で誘いあったり、情報のやりとりがあり、準備着々、昨日ついに本番を迎えた。
当初は、30人くらい集まるかな、という予想だったが、結局55人、しばしも休まず9時間に及ぶセッションとなった。
ユニットの演奏は、それぞれ個性豊かな上にしっかりとした仕上がり。
感心する。
セッションでは、プロのミュージシャンも幾人かいて、チャージを払いたいくらいの内容。それがいつまでもいつまでも続く。
現役のメンバーも十数人参加してくれた。
その音楽性や、技術は私たちの頃よりもっと優れていて、日本の音楽が底上げされていることを痛感。
吹奏楽やブラバン出身という一年生が、既に歌もののソロをやれている。

実をいえば、当初FBにはかなりの抵抗があった。
個人情報がダダ漏れだとか、フィッシング詐欺の被害があるかも知れないだとか、周囲には否定的な感想が多かったのだ。
けれど、Twitterで新しい情報の山に感動していた身としては、熱いお湯につま先を浸すごとく、おずおずと足を踏み入れてみようという冒険心もあった。
始めたのは、英語の翻訳教室の先生のお誘いで、FBはとても良いから是非体験して、先生のメッセージもそれで受けて欲しいと言われたこと。招待されたのを機に、思い切ってページを作ってみた。

探されて、居ると分かればお誘いが来る。
それで、MJGのOBグループに入れていただき、今回のリ・ユニオン大セッション大会。
集まった人たちの数や熱気は、じつに、FBがなければ、実現しなかったものである。
例えば、メーリングリストでは無理だったろう。
FBでは、関わる個々のバックグラウンドがほの見え、主旨以外にも共通の話題で盛り上がることもできる。
顔を合わせる前に、かなり仲良くなってしまえるのである。
それは、喋り方(書き方)や、趣味指向の傾向を何となく嗅ぎ取れる効果による。
顔を合わせて、名刺交換するよりも、バーチャルに出会って話しておくことが程良い具合に相手を知る上で役に立つのだ。
会ってみて、写真とイメージが違う人もいれば、もっと好感度が増す人もいる。
けれど、予習できている分、気が楽だ。
出会ってから、緊張して観察する必要がない。

FBは、空間や時間を超えてディスカッションを可能にする場であるのみならず、空気を読み取れる可能性すら持っている。
利用の仕方如何だとは思うが、これはやはり、今までにない全く新しいユニオンの形だ。
ひとつのキーワードの下に数十人が集い、気の向くままにディスカッションを積み重ねる。
つまり、本番前にリハーサル的なことがかなり済んでいる。

個人情報を守るのも理解できるが、自分の感性が許す範囲で開いて繋がり、互いに動くことの方を取れば、今までとは確実に違う世界が形作られる。
SNSは、そうして人の在り方まで変えていくのだろう。

個人情報を公開するについて、慎重でい続けようとは思いつつ、今回のリ・ユニオンの体験から、私は、FBを初めとするSNSに一票入れたくなっている。
もう先週のことだけれど、中牟礼さんの九州ツアーに、最後の二日間だけ帯同して、九州を味わってみた。じつは、四国や島根県までは行っているのに、九州にはまだ上陸していなかったのだ。
福岡には、高橋ボスさんがいて、空港に着くなり、料亭に来いと言われ、高級なお昼の会席をご馳走になった。夜の打ち上げは、もつ鍋の店で、他に鯨料理。
ニンニクと油。カッカする。
翌日は、特急つばめで長崎に向かい、着くとすぐ中華街で待っているとバンドから電話があり、特大の皿うどんを食べ、それからチェックインしてグラバー園を観光。
夜の打ち上げは、思案橋のイタリアンで、全部店のおごりとかの贅沢なオードブルとシャンパン。私は飲めないので、食べ専門。それからみんな、3次会まで行ったそうだ。私は2次会で退散したけれど、二件目に行ったバー、アジールがすごく良かった。のぶ、とみんなに呼ばれている私より少し年上のマスターが、素敵に楽しい。

食べてばかりで、ぜんぜんお腹が空かない二泊三日。
しかも、何を食べても素晴らしく美味しい二泊三日。
福岡のごっつい感じや勢い、長崎の風光明媚、それぞれの土地に暮らす人たちから立ちのぼる、郷土があることの落ち着きと愛情なんかを肌で感じた。

東京は仕事をするには素晴らしい場所だけれど、時々地方に旅行して人間の形に触れないと、生きることの本来の姿を忘れてしまうかも知れないな、と感じた。
人には適正な生活のサイズがある。
音楽で仕事をしようとすれば、東京にいる方が有利だけれど、それは人としての自分の形を曖昧にしてしまうことでもある。
忙しく移動して、コストと段取り優先に動いていると、いつの間にか人としての輪郭がつるんとしていく。抵抗のない、面白くもない形に。
だから、軽やかに仕事をしていることと背中合わせにある危険を、いつも感じていた方が良い。


子どもの頃は、美味しいものは最後までとっておいた。
まず嫌いなものを片付けてから、お食事の余韻をその味で締めよう、という魂胆。
それは、食べ物だけではなくて他の様々な場面に対しても応用されており、一番読みたい漫画は最後まで取っておいたし、一番好きな遊びも最後の機会を待った。

無邪気な時分から、歌ったり本を読んだりばかり好きだったせいか、親に「やることやってから遊べ」といつも叱られていた。やることとは、宿題とか、予習とか、ピアノの練習とか、風呂にはいるとか、家事手伝いとかで、加えて明日までの準備万端整えてから、やっと遊ぶように、という指示だったようだ。
けれど、たいてい親が満足するまで準備していると夜中になってしまい、ついには何も出来ないうちにもう遅いから寝るように、と命令されるのだった。

しかし、その態度は完全に習慣化し、ずーーーっと長い間続いて、子育て中などは、しなくてはならないことをするだけで寝る時間もないような毎日が続くと、好きなことは何もしないですますという時代が続いた。
すると私は、自分がしたいことがあまり分からなくなってしまった。
まず、しなくてはならないことを全部するので、それで一日が終わった。
以上、であった。

良く躾けられた人物である。
家事万端、子育て万端、仕事万端、ほぼ完璧であった。
でも、私は辛かったようだ。

それがいつの間にか、そういえば最近は好きなものから食べてるな、と驚く。
しかし、たったこれだけのことができるようになるまで、結構練習した感もある。
自分優先が難しいなんて、そんなのバカじゃん、という人がたくさんいるかも知れないが、私のような人は、かなりの数いるはずなのである。

親は、世間様に迷惑をかけない人格を育てようとしたかも知れず、あるいは、親自身が理想とする人格を投影しようとしたかも知れず、しかし、感度の良い私はそれを拒否ることもなく、せっせと頑張り、頑張っても頑張ってもそれで充分と感じられない、苦しい半生を送ってしまった。

でも、選べなかったようだ。
これって問題かもと感じて心理学を学んだりもしたが、分かっても習慣からはなかなか抜け出せないものだ。

それがこの頃、急激に緩くなれたのは、たまたま、私を締め付けていると感じていた周囲の方が先に崩壊してくれたためだ。
そして病気もした。

心の中では、なんだ、そういうことだったの、つまり虚言ね、じゃあ、止めます。
となり。
ああ、ラクだこと。
に落ち着いた。

これが、現在のラクの処方。

好きなものから食べ、嫌なことは後回しにし、行きたいところに行って、楽しんでいる。
それができるのは、キリキリと、引き絞りに絞った、かのしんどい日々に溜めた経験とか理解とかの蓄積のお陰なので、何が良かったとか悪かったとかは、全然言えない。

歌えて、文章が書けて、教えられて、レーベルを運営して、会社をやって、子どもが三人も立派に育ち、友だちがわんさといて、それは、辛かった時期と天秤にかけて、どうよ、ラクしたかったのかよ、と言われたら、本音でまあ、これで良かったんじゃないのか、と納得してしまう。
かなりの程度無理に近かったが、選んだ方法はそれほど間違っていなかったみたいだ。

とりあえず、還暦前に「美味しいものから食べ始める」態度を取り戻せたことは素晴らしい。
皆様ありがとう。

人生の不思議

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この頃ふと、私の人生の不思議について考える。
なぜ、ここでこのような仕事をしているのか、ということである。

子どもの頃、よく親に「何が大事か考えろ」とか、「資格や安定を優先しろ」と言われた。
うちは、歯科開業医で兄で3代目だった。弟は精神科の医者になった。それぞれの奥さんたちも、医者の娘だったり、姉妹で医者に嫁いでいたりと、何か次々と医者が出てくるのだった。

わたしは金輪際、医者系は駄目だった。
本を読むのとバンドをやることに生涯をかけた。
親の目から見ると、激しくふらふらしていたらしい。
勘当されたくらいだ。
しかし、私は、自分の性格では、そうしていないと生きられないと、不確かながら感じていたのだ。

中学生の時、グループサウンズが大好きで、特にショーケンが好きだった。
後に、夫がショーケンのツアーのバックをしたので、打ち上げで握手してもらった。
その時、隣に内田裕也がいた。
私は何でここにいるのだろう、と不思議な感じがした。

歌手の道は半ばだったが、26歳でいったん中止し、せっせと子育てをし、自宅でライター仕事をした。
本が10何冊か出た。
そのうち、歌を再開しようよと励まされ、再開して、かつて共に頑張っていた仲間たちと再会。
みんな押しも押されぬミュージシャンになっていた。
事業をしていた大学のサークル仲間からスタジオの設立に誘われて、立ち上げと運営に関して色々企画しているうちに、レーベルもできた。その時点でスタジオの借財から自由にして頂き、レーベルと教室に全力投球できることになった。

私のレーベルからは、昔の音楽仲間たちが次々とリーダー・アルバムをリリースしてくれたので、そろそろ10タイトルになる。
そして、今現在手がけているアルバムは、ギターの重鎮、中牟礼貞則さんを囲むトリビュート盤。
ゲストに村上ポンタ秀一、金澤英明、石井彰、渡辺香津美、小沼ようすけ、TOKU、ケイコ・リー、フライド・プライド。
これは凄い。
信じられない。
プロダクションやレコード会社、ライブハウスなどと連絡を取り合っている自分を、別の自分が不思議な感覚で眺めている。
だって、こんなつもりじゃなかったし。

実家では、いつも訳の分からない困った娘扱いだった。
娘、といってももうそろそろ孫ができそうな年齢だが、つい数年前まで、自分がこんなことをしているなんて、ちょっとも、夢にも思わなかった。
じつに不思議だ。
ただ、ただ、不思議だ。

アンサンブル

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育児のために長く歌を休んでいて、久し振りに戻ってきたら、昔新人同士だった仲間はみんなヴェテランになっていて、「付き合っていただく」感じになっていた。
ライブなどしてみると、力量の差は歴然で、こりゃ死ぬまで三下だわい、と覚悟した。
自分の好きで現場を離れ、3人も子どもを育て上げたんだから贅沢は言えない。
人生はダブルでは生きられない。

現場に戻った最初の頃に痛感したのは、意識が自立していない、ということだった。
自立的に演奏できない。
ミュージシャンからも
「自分のペースで歌えてない」
と感想を言われた。

「自分のベースって何だろう」
そのことの意味をいつも考えた。
もちろん、声の出方やリズムの乗り方など、現役の時からするとひどく勘が鈍っていたし、それが自信のなさに繋がっていたこともある。
けれど、主体的に演奏する、というのはまた違った次元のことだった。

主婦で母親で、という立場で生活していると、ひたすら「譲る、遠慮する、へりくだる」必要があった。自分の我を出さず、周囲の利益のために貢献する。
主婦で母親であり、その立場で日常を暮らすとなると、日常の構えだけでなく、精神性までもが主にそういう「気遣い」あるいは「わきまえ方」をすることと同一なっていた。
相手が話すのを待つ。
相手がしたいことを察する。
相手が楽になるように立ち回る。
それを演奏の中でもしてしまう。
聴いてしまう。
配慮して全てが遅れる。
対等にならない。

私の構えは違うのではないか、と感じ始めた。
良かれと思ってすることは、さほど良い結果を導かないかも知れない。
つまり、配慮、調和へのアプローチという働きの難しさ。
してもらう側からすると、配慮は美しい。
けれど、一方だけが配慮していると、場が死んでくる。
活き活きしない。
つまり、一方的な配慮はバランスを欠く。
やがて恨み辛みなども沸き出す。

人ははじめに、怖れず自分の都合を精一杯出すべきかも知れない。
表現する、という意味でだが。
それを出し合って後に、話し合いが始まる。
愛があれば、やがて互いの美意識が収まるところを得る。
アンサンブルとは大方、そういうことの積み重ねだ、という気がする。

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