自分の生い立ちや境遇について考えすぎるときは、たいてい迷いがある。
上手くいっていない感というか。
これが絶対に素晴らしいはずだと、確信の持てるものを出せていないとき、心は右往左往する。

ジャズを歌うということに、大分戸惑っていた。
歌い始めた頃の愛、それらの音楽がとても好きという想いは、少しも減っていないのだ。
それでも、ライブでお客様の前で歌うとなったとき、違和感があった。

それは言葉の問題。
音として聴く音楽はたくさんあり、海外の歌を聴くのに馴れていれば、サウンドやリズム感、歌手の人となりやムードだけで充分満足する。
詞の内容に踏み込まないままで、感動することもできる。

けれど、私の手の中にあるものだけで何かを表現しようとして、その品数の少なさに戸惑っていた。
いや、きっと品数は多いのだ。
ただ、それらを料理し直して提供するその手間に躊躇していた。

クリシェから離れると、たくさんの指示とリハーサルが必要になる。
私がお願いして、快く、あるいは渋々でも、楽しくつるんでくれる人はいるだろうか?

いざやってみたら意外にすんなりと運ぶのかも知れない。
多分、必要なのは勇気だけだ。

誰とどんなことをしたいのか、ずーっと考えている。
惰性にならないように、お仕事にならないように。
予想では、はっきりとした形にするまで、数年かかる。
けれど、今更と思ってはならない。
今分かったのだから、今から始める。

それを成し遂げたら、私はとても満足する。
そして、幸福な人生だったと、自信を持って言えるようになるのだから。
生まれた境遇や、その後の人生の巡り合わせで、何の落ち度も無いはずなのに不遇という人は五万といる。
というか、ほとんどの人々は、自分を不遇だと感じてもいる。
恵まれている人々は、しかし、それを肯定したがらない。
いわゆる自己責任論。
自己責任論は、成功した人にとっては蜜の味らしいが、裕福な家庭に育って、1度外に出てみたら、財産とは時勢や運に多く負っているものだと、子どもでも気がつく。

私にそれとなく、親子関係の問題を話してくれる人々は、たいてい裕福なのだ。
裕福であることは、素晴らしいことである反面、それを享受する人格にとっては危険なものでもある。

裕福だというだけで、自分には他の人々より価値がある、と単純に思い込んでしまう人がいる。
そのような人が親で、自分の機嫌を損ねる他者を罵るタイプだったりすると、実に救いようが無い。
そしてなぜかそのパターンが多い。

私の育った時代はたまたま高度経済成長期で、大戦で辛酸を舐めた後の大逆転勝利を体現した人が多数いる。
およそ、人並みの才覚と体力があれば、かなりな確率で成功できた。
そして、成功を全て自分の実力だと信じてしまうことが非難されることは無かった。
それどころか成功体験は国を挙げて奨励されていた。
当人だけで無く、家族皆が尻馬に乗ってしまうくらい。
良く、作家などが地方の講演会などに出かけると、控え室で派手な印象の婦人が根拠無く偉そうにしているのに出会い、あれは誰かと尋ねると、例外なく当地の金持ちの奥様であるのだ、という話を聞いたことがある。
作家が面食らうのは、その地での知名度と普遍的な知名度や認知が混乱していることに気づくからだ。
そしてそれは、何かの機会に試されるということがほとんど無いので、温存されてしまう。

たとえば、そのような人物が親だと、子どもは勘違いを刷りこまれ、随分変な価値観を持ったまま成長してしまう。
勘違いは悪できないが、対人関係では致命的に働く。

いじめに遭うとか、はぶられるとか、嫌われるとか。
そんな程度はまだしも、最も大変なのは、自分を過大評価していることに気づけない点だろう。
外界に対しては、何らか下駄を履いている気がしながら、罵られて育つので自己評価は低い、あるいは自己尊重感が無い、という変な人になっている。

普通にしていると不安なので、やたらはしゃいだり、逆に、おどおどしたりする。
人見知りである。
そして、自分は誰にとってもお邪魔で迷惑な存在かも知れないと、いつもいつも感じている。

そんなだから、役割のある仕事の立場上での付きあいはとても楽だけれど、友達付き合いはひどく苦手だ。
仕事でも、こちらからアプローチするのは、心理的にとても大変。

理屈では、色々とアプローチして、その中の幾つかが成功すれば良いのだ、と考えるのだが、それ以前に、頭の中で失敗に対する叱責がデフォルトとして鳴り響くので、とても辛い。
踏み出すまでに費やすエネルギーの量が半端ない。

ちょうど、私が産まれて育った時代、アメリカでは人種差別に対する熱い「公民権運動」が続いていた。
ジャズに出会った頃、まだその余韻があった。
音楽とともに、レイシズムに興味が向いた。
人が他者を差別したり、迫害したり、ついには殺害したりする。
平等が成立しない原因は何に起因するのか。
優位性を成立させるその仕組み。
人種差別については、20歳の夏にホームステイした西海岸の家庭で、その実際も体験した。
自分に似ない他者に対する恐怖が、ひとつの大いなる遠因だろうと感じた。

結婚して子どもを育てている間は、フェミニズムの勉強会などに行った。
女性が主体性を持つとはどのようなことか。
家族の面倒を見る存在に終始して良いものか。
10歳ほど年上の、団塊の世代の女性たちが、議論を沸騰させていた。
けれど、多くの主張や、説明をすぐには理解できず、納得もできないまま長い時間が過ぎた。

次には、大学時代に出会って、そののままうやむやになっていた「臨床心理学」の本格的な勉強。
セラピスト養成の研究室に入れて頂き、大学院生や臨床心理士たちと切磋琢磨した。
学際的な論文など、読むのも書くのも初めてに近かったので、頭が壊れるかと思ったが、何とか自分なりに、学問のやり方を学べたと思った。

しかし、これらの勉強が何を目指していたかと言えば、ひとえに、自分を救うためだった。
いつも辛い。
いつも孤独。
愛について懐疑的。

この時期には、クラシック音楽関係の著書を書いていたので、そちらの学際的な勉強もしていた。
そのように、膨大に勉強し続けたけれど、辛いのは治らなかった。
結局、辛いのは治らない、という場所で、覚悟を決めて生きなくてはならないと思い知った。
成果ではないものでしか、自分は救われないらしい。

愛を示されると怯えてしまう。
その人が自分を支配しようとしていると感じてしまう。
支配した後に放擲するのではないかと怖れてしまう。
しかも人生は、そのように進んでもいる。
それは自分が招いていることなのか、そのような巡り合わせしか用意されていなかったのか、知りようも無い。
けれど、内面的には、ずっと辛くても仕方が無い、と開き直るしかないと悟った。

他の人の心の中を見たことが無いから、そしてこのレベルまで踏み込んで語り合うなどということもないから、私が特に辛い人生なのか、他の人々とそう変わらないのか、それは未知のままだ。

けれど、ここにいるまま、何かを希望したり、かいくぐったり、時に感動したりしつつ、生きていくことはできるかもしれない。
どこまで行っても、「かも知れない」でしかなく、それが人生の終わりまで、ずーっと続くのに違いないのだけれど。

人の心の有り様の、あまりの繊細さと複雑さに、何だか笑っちゃいますけど。

誰かの欲望を叶えるために生き始めると、こちらに向けられる欲求はどんどんとエスカレートする。
体育会系のコーチが、才能のある選手たちに無理なトレーニングを課して、今よりさらによい成果を出させそうと目論むのが具体例だ。
選手たちは、しばしば、彼らの欲望に応えて疲れ果て、故障したり、心を病んだりする。

面白いのだろうと思う。
もっと勉強すれば、あるいは、もっと練習すれば、成果が上がるよ。
もっと良い結果がついてくるよ。
そう励ましながら妄想するのは面白くて楽しいに違いない。
だって、要求する彼らの中に、フィジカルやメンタルの現実の追い込みは起きないのだから。

彼らの妄想の中では、努力していることへの快楽、楽しさしか思い浮かばないのかも知れない。
それらはドラマや劇画の中で、楽しいこととして描かれている。
そのフィクションに悪のりするのは、確かにとても面白い。
問題は、その面白さを自分のために採用するのでは無く、誰かに対して投げるという点だ。

多くの場合、無理な注文をする人々は、現実的な努力をしたことが無い。
自分が誰かに対して望む「努力」という事態の、真実の重さや内容について、確かな具体像、体感を持つことができていない。
知らないから気軽に申しつける。
「もっとこうすれば良いのに」

ひとつことを極めるとき、前提として主体的に選び取ったものである必要がある。
他者から押しつけられたものに対して、人並み外れた努力ができることは稀だ。
好きこそものの上手なれ、という良く言われる次元でも無い。
好きに加えて、生物学的な向き不向きが影響する。
誰かには簡単にできるのに、自分にはできないことがある。
その逆に、他の人々には難しいことらしいが、なぜだか自分には楽にこなすことができることもある。
その、自分が他の人々より楽にこなせることを選び取り、深めて、本当の難しさをとことん知り、さらに飽くことなく時間をかけながら、自然体となるまで身につけていくことこそ、努力だ。

人はひとりずつ違う。
驚くほど。
その違いを、自分と周囲とが見極め、受け容れ、しばしば点検しながら丁寧に歩む以外、良い生き方を選び取る術は無い。

けれど、その体感をすっ飛ばす人々がいる。
見るだけ、空想するだけで、大変さを知ることはない。
そのためか、自分の不快には大層敏感で、耐性も低い。
キレやすく、時に、不快の責任をこちらに押しつけて、言い募る。
いたわりやねぎらいはしなくとも、罵り言葉なら、唖然とするほどスラスラと口から流れ出る。

「なぜお前は、こちらが思うように動かないか?
それは嫌がらせか?
こちらの要求に応えないのは、愛情欠如なんじゃないか?
そんな態度で良いと思ってるのか?
恩知らずか?」

その口からすらすらと流れ出す罵り言葉は、全て、こちらにしなだれかかるほどの甘えでしかないのだが、当人は、こちらを断罪でもしているかのように高揚して、得意げな顔さえする。
その表情は、言葉で痛めつけることで人を支配したい欲望にまみれている。

罵る人が家族にいると、良い人は病み、駆逐されて、家庭そのものが壊滅する。
家族の中にたったひとりでも、無知と甘えとにまみれて、それに気づけない人がいるだけで、家庭は無残に破壊される。
普通に理解力のある人は、自分の心を守るために無口になり、閉じこもって悪口を避けたがるので、事態はさらに悪化し続ける。
戦えば良いと思うだろうか?
テレビのドラマか何かのように、ちゃんと話し合えば良いとか、思うだろうか?

「話し合い」という、フィクショナルなデマゴーグ。
戦いは、同じルールの下でしか成立しないということを知っているだろうか?
同じ言語を話していても、全く言葉の通じない人々がいるということを、誰もが日々、様々な場面で経験している。
それを知らない人だけは、お茶の間ドラマのように予定調和な成り行きを妄想するかも知れない。

良い映画には、その絶望的な困難を丁寧に描いているものが多い。
そして文学も。
つまり、人間とは、これらの困難について考え考えしながら、身を守り、死なないように、そろりそろりと生きている存在なのだ。

他者の欲望

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心理学には様々な流派がある。
前提として「臨床心理学」と言わなくては、セラピーやアナライズにすら辿り着けない。
迷路にネズミを走らせたりして統計を取る、「実験心理学」という分野もあるのだ。

さて、臨床心理学。
私が最初に触れたのは、アメリカのサリヴァンという精神科医の著書だ。
大学のゼミで購読したその本こそが、後に、あまり論理的でないこの頭が壊れそうになるまで考え続ける学びへと導くものだった。
ゼミは「ユートピア思想」へのアプローチとして、人間の心がどのように形成されていくのかを考えるものだった。

とても個人的な理由で、その内容に触れたときのショックを今でも思い出す。
人の心の成長は、育てる人の態度に大きく左右される。
そして育てる人は自分では選べない。

親の意に添えないことを、親の言動に理解が及ばないことを、自分の無知のせいと思い込んでいた、その思い込みに新しい光が差した。
親は必ずしも正しくないと、サリヴァンはほのめかした。
そこから、怒濤の心理学本探しが始まり、既読書が積み上がっていく。

人の心理は、矛盾した情報を受け取りすぎることで、歪む。
歪みはそのまま負荷となり、心の形成に影響を及ぼす。

乱読する中で出会った言葉のひとつに「他者の欲望」がある。
フランスの精神科医ラカンの言葉だ。
ラカンは難解で、私には歯が立たなかったが、この言葉ほど自分の辛さを上手く言い当てているものは他に無いと感じた。
誰かが私に、「こうした方が良いよ、そうしてくれると私が嬉しい」と訴えかけている。
私は無意識にも、意識的にも、その信号を受け取り、自分の欲望はさて置いても、他者の欲望を叶えなくてはと懸命になる。
それは、自分の感情を自分で矯正することに近い。
怒ってはならない、避けてはならない、嫌ってはならない...。
果てなく続く「ならないの連鎖」
感情を制御した果てには、行動を制御されることでは起きない種類の病理が、心に棲みつく。

感情を制御されると、人は生気を失っていく。
終始、焦燥感と不全感に苛まれるようになる。
いつも忘れ物をしているような、何もかもやり遂げていないような、自分の不完全さばかりが意識される。
責め苦のような日々が続く。

そのまま、子ども時代と思春期が過ぎる。
楽しそうに語らい、連れだっている友と打ち解けられなくなる。
グループの中で孤立しがちになる。
人よりも素晴らしく努力しているのだが、承認は得られていない気がする。
どこまでも続く、自分の努力の足り無さに対する不安。
どこにいても、誰からも承認されていないと感じる孤独。

何よりも問題なのは、それを異常だと知りえないことだ。
他の友人たちの家庭と、自分の家庭とを比較するだけの知恵は無い。
その安心や無邪気な喜びや希望が、他の友人たちと較べて極端に少ないことに気づく術は無い。

他者の欲望は、発している本人にとっては親の愛だったのだ。
エゴでも、見栄でも、自分は親なのだから、その立場で子どもに望むことは正しいはずだと、無邪気に信じられていた。
その無邪気さの残酷。
矯正器であちこちを固められた幼い心は、生涯治らない歪みを負う。

たったひとつの救いは、いつの日か、自分に歪みがあることを知ることはできる、という点だ。

大人になって、臨床心理学と出会い、幸い私にはそれができた。
できないと、摂食障害や、自傷行為、不良化、依存症などに進まざるを得ない。
私の兄弟はそちらに行ってしまった。
私を留めてくれたのは、音楽や文学への傾倒だ。
それに依存しても、自傷ではない。

自覚ができて少し楽になり、しかし、その歪みから生じる、生きていく上での困難を改めて認め、受け容れることにせねばらなくなった。
少しずつ、健康に生きる可能性が出てきた後も、他者の欲望は、長く付きまとった。
それが完全に無くなったのは、親が認知症になった時だったかも知れない。

厄介なのは、他者の欲望を私も欲望するということだ。
親から離れても、周囲には必ず人がいる。
私は誰かを喜ばせようとする。
逆に、こちらからのお願いはし難い。
頼まれなくても、気がつくと誰かの楽のために動いてしまう。
それを称して「気が利く」とか「良い人」と言うべきだろうか?

そんな人になりたいわけでは無かったろう、と思う。
わがまま勝手で、傍若無人な、でも、魅力的な人にこそ、なりたかったのだろうと思う。
子供の頃から音楽と本が好きで、進路を決める際にも、音楽専科に進むか、文学部に行くか迷った。
バイオリンの先生や高校の合唱部の顧問の先生は、音大行けるでしょう、と言って下さった。
小学校の時分に国語の研究授業が有り、太宰の「走れメロス」を読み込んで感想文を書くという機会があった。その時は、担任では無い偉い先生が来て授業をして、たくさんの教育関係者が見学したのだが、私ともうひとりの感想文が選ばれ、朗読した。その先生は、特に私のものが気に入ったらしく「ぜひ、文学にお進みなさい」と仰った。

結局、音大のクラシックの厳しさにはついて行けないだろうと考えて、文学部を選んだ。
大学のゼミの先生は、ゼミ旅行の際に私が書いたものを気に入ったらしく、いつも、「論文ではなく散文を書いてこい」と注文され、卒業時には研究室に残って文学をしてはどうか、と誘って下さった。

しかしながら、私は音楽の方に心が動き、散文を書き散らしながらも、仕事は音楽にした。
子どもを産んで音楽を休んでいた間に、フリーライターのバイトを頼まれ、やってみたらさすがに上手だったらしく、次々と仕事が舞い込んで、子育てしながら死にそうなくらいたくさんの売文を書いた。著書が出たら、フリーライターの双六はそこで上がり、と言われるくらい大変なことらしかったが、バイト感覚でやりながら、著書やゴーストで書いた単行本は10冊以上ある。

そうしているうちにまた、音楽の仕事に舞い戻って、現在はジャズボーカリストで、ボイストレーナーとかジャズレーベルのプロデューサーとか音楽ライターもしながら、それらのための会社までできた。
どの仕事も好きかも知れない。

知れない、と言わざるを得ないのは、じつは本当に好きなのかどうか良く分からないからだ。
子供の頃の選択肢としては、他の勉強よりは、楽器を弾いたり歌ったり、本を読んだり雑文を書くのが好き、と言う気持ちだったのだが、それが全て仕事につながってしまうと、好きなのかどうなのか良く分からなくなる。

私の人生は大分特殊で、経験とか境遇というものが、ちょっと奥様たちの集まりに於ける茶飲み話などでは口にできないくらいシビアで、そのために日々、身の置き所をどうして良いのか分からない感じになっている。
好きだったはずのものを、全て趣味に留めず生きるための生業にしたのは、野心などでは全く無く、唯々、食べていくためだった。
女性の友達というのは、たいてい良く喋るものだが、私はあまり口を開けない。
いったん話し始めてしまったら、どの人に対しても負荷をかけてしまうような話をせねばならず、それなら黙っていた方がマシだろうと、口をつぐんでしまう。
大変な事態がひとつふたつならまだしも、いくつもあって、それをどうやって切り抜け、生き延びてきたのかすら、自分にも良く分かっていないのだ。

もの凄く大変なことだらけだったなぁ、そして今も大変だし...、と思うと、軽々にボランティアとか寄付とか同情とか思いやりとかには近づけなくなる。
なぜそうなのかは、自分でも良く理解できていないが、よっぽど大変な人は、まず自分の面倒を見なくてはならないはずだと、どこかで思っているのかも知れない。

私の周囲には、なかなかおねだり上手な人たちがいて、「これこれをして欲しい」というオファーは良く受ける。それが仕事につながったり、自分の興味深いことであれば一生懸命にやるのだが、その逆として、私から「これこれをして欲しい」とお願いすることはほとんど無い。して欲しいことはあまりに基本的、根源的なことで、お願いして断られるとこちらの落胆や疵が大きすぎるからだ。意を決して口にして、断られ、打ちのめされたこと数知れず。
私は、よっぽど理不尽なことで無い限り、何でも頼まれたらしてみよう、取り組んでみようというタチなので、断られるとびっくりする。そんなに私を楽にさせるのがいやなのだろうか、と悲しくなる。けれど、私の人生はいつも、そういう巡り合わせに終始している。

時々、自分の人間性のどこかに欠落があるか、病的な要素があって、それでこんなに困難なのかと考える。病的なのは解っている。家族自体がそうだったのだ。けれど、そこにとどまらないように、人について学び考え自分を変えもしながら懸命に生きてきた。神経症からは脱却できたと思うし、なかなか大変な仕事もこなしてきたと思う。何より、子ども3人をほとんど自力で育て上げた。

それでも、まだ自分に不満が残る。もっと闊達で可愛げがあり、楽しい人になれないものか。表情が無いとか、堅いとか、暗いとか言われずに済む人になれはしないか。

そろそろ、また書いておきたいのかも知れない。どのように育つと、私のような人になってしまうのか。どのような疵や負荷が、人を苦しめ続けるのか。それでも、人は成果を残すこともできるし、それなりの感動を分かち合うこともできることを、同じように疵や負荷を受け取ってしまって、生き辛いと苦しんでいる人に伝わるような何かを、書いておきたいのかも知れない。

私は幸いに、家族にすら、その苦しみを投げつけないで済んでいる。それを可能にできるほどの力を持って生まれたことを、いつも感謝している。
演奏するときの自分の在り方について、遅ればせながら解った気がすることがある。
とてもシンプルで、言葉にしてしまえば全く当たり前なことなのだが。
「語り合う」ということ。
ともに演奏する人々とお話しをするように耳を傾け、私の想いを届ける。
そのためには、事前に楽曲についてよく考え、捉えて、自分の方針を持っておく必要がある。
歌手はバンドではフロントなのだから、 こちらの方針がクリアに出ない限り、全体もそこから進むことはできない。

曲に関しての基本的な理解とアレンジの意図、そしてそれらを反映する歌。
それらがあって初めて演奏が成り立つ。
バンマスがいることの重要性。
歌は必ずいつもバンマスの立場で、その曲にどのような情景を見ているのか、それについて肯定的なのかそれとも異議を唱えたいのか、喜びか悲しみか、怒りか訴えかを持たなくてはならない。
どの曲でも、歌い始めるときの心持ちには多くの可能性があり、自分の引き出しを探しまくる必要がある。まったく、楽しさばかりでは音楽にならない。

歌の神髄は歌詞に有り、それをどのように咀嚼するかにかかっている。
ジャズの場合、英語がハードルを上げてくれるが、純粋に「発語」と「音韻」の美しさ、面白さを楽しむ側面もある。ジャズのリズムは英語由来だから。
歌詞の意味など分からねど、その言語の持つムードを聴き、ひたり、楽しむ道もあるのだ。
ラテン系の歌など特に、スペイン語やポルトガル語でしか楽しめない楽曲は多い。

それほどまでに、言葉と近しくある歌は、楽器のインプロビゼイションをそのまま採り入れなくても充分すぎる情報量がある。
これを信じるか信じないかで、歌手の進む道は色々変わってくる。
ポップスやロックのシンガーは、ジャズシンガーのように楽器のプレイヤーに引け目を感じてはいない。それどころか、バンドを従えて威風堂々としている。
なぜなら、彼ら彼女らには「歌詞」があるのだ。歌詞あってこそのオリジナリティ。

ジャズの歌い手は、インプロをやる暇が無いほど、歌詞を大切にしても良いのではないか。
ダバダバやっている時間が惜しい。
もちろん、しっかりとダバダバを組み込んだアレンジがなされ、それこそが音楽的に効果をもたらすならそれはそれで良いのだが、変奏の可能性を大きく備えた楽器と対称の力を持つものは、人の声がもつ説得力と歌詞だ。

歌手は、歌が持つ力を信じる努力をすべきだ。
信じた上で、プレイヤーたちとお話をしないと。
ジャズであっても、歌には無二の力があるのだ。
唯一言葉を持つ楽器としての「歌」の力を、心から信じた歌い手だけが、自信を携えて、堂々とバンドの前に立てるようになる。
初めに好きになった音楽は、すでに激しいものだった。
小学生までは、時代も時代、おまけに田舎ゆえ、ほとんど情報が無かったので、いきおい、テレビの歌謡曲や映画音楽くらいしか知らなかった。
けれど、自分でトランジスタ・ラジオを聞き始め、洋楽も聴くことができるようになると、ローリング・ストーンズやら、グランドファンク・レイルロードやら、バニラファッジ、サム・アンド・デイブなんかがお気に入りになった。
当時大ヒットしていた、サイモンとガーファンクルや、メリー・ホプキンなどが流れると、つまんなく感じて「早く終われ」と思った。
従って、自分が歌うときも激しく歌いたかったようだ。若者にありがちな、ただ闇雲にがなっているという、どうしようも無い歌い手であったけれど、それでも歌の仕事に就くことができた。

いまだに始終反省はする。
がなってはいけないでしょ。いい加減大人にならないとさ。
歳を取ればあれこれの怒りも収まり、人生に気も済んで、枯れた良い味の人になるのかと思っていた。落ち着いた、説得力のある、頼りがいのある大人。
ところが全く予想外れ。
還暦を過ぎても、嫌いな言葉は「小粋なジャズ」であったりはする。
小粋にスゥイングなんて、できませんとも。
ぐいぐいスゥイングならしたいけどね。

この欲はどこから湧いてくるのだろうか。
若い才能あるミュージシャンたちを見て、もう自分なんかが頑張らなくても、ジャズ界は安泰だろうと思いもする。多くの若者がジャズ界に参入してくれて安心もするのだが、それと自分の欲はまた別物のようで、いつまでも若い才能と張り合って、無駄な努力でもいいから続けていたいと思うのだ。
そうすることが楽しいのだろうね。
ああ、頑張りたい。昨日より少しでも良い演奏がしたい。そして、良いミュージシャンと出会いたい。
そういうことが、楽しすぎるのだと思う。
歳を取っても枯れないのだなぁ。
定年もないし。
このまま、倒れるまで頑張るんだろうなぁ。


日々、素晴らしいミュージシャンのCD制作に精を出している。
そういう私も、じつはシンガーで、録音し、ミックスした音源が2タイトル分ばかり眠っている。
形にしなくては、と思いながら、ライブもそんなにやらない、ツアーなんてもってのほかという私がCD出してどうすんの?? とも思う。

私は歌う他に、文章を書いたり、絵を描いたりもする。
それをトータルに作品にできないだろうか。
CDと呼ばれる製品パッケージにこだわらず、私の詩や散文や、絵などを組み合わせたお楽しみ的な何かに、さり気なく音源もついているというような、CDではない何かを作ってみたいと思う。

その上、数10枚ずつ制作し、それに少しずつを改良加えながら、何度も作っていく、成長させていく。
そういうのどうなんだろう?

人生の色合い

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明日は私の誕生日で、めでたく62歳になる。
還暦を過ぎると、人はやたらと年齢のことを気にし出すようだ。
それは、身体の不調が増えることで、いやでも寿命の事に思いが至るからだろう。
何度か、絶不調を経験すると、翌朝はもう目が覚めないかも知れないな、と寝る前に思ったりする。
こうなると、残りの人生をどう過ごすかについても、思わず知らず、考えてしまうことになる。

体調の悪い日には、もう人生に疲れたから、なるべく人と会わず、静かな場所でゆっくりしていたいと思う。
それが、幾分元気が出ると、死ぬまでめちゃくちゃやってやるぞ、と過激なことを思ったりもする。
私の場合、常日頃がめちゃくちゃなので、これ以上どうすることも出来ないかも知れないが、それでもまだ工夫、改善の余地は無いかと、欲張りな思考回路になる。

私は今から、どのように生きるのが良いのだろうか。
孤独が嫌いではないから、ひっそりと本を読んだり、映画を見たり、絵を描いたり、独りで完結することだけをしながら、時間をかけて食事を作り、家を整理する日々、という在り方にも憧れがある。
ただし、これは誰かに生活の面倒を見て貰える場合に限り、私の場合は、自力で稼がなくてはならないので、いくら望んでもこうはなり様がない。

何しろ、仕事はしなくてはならない。
仕事をし続ける上で大切なのは、他人と過不足なく付き合っていくことだ。
互いの都合や能力をうまく使い合って、つかず離れず、もたれ合わず、無視もせず、普通に過ごしながら何かができあがっていくのが理想だ。
どんなことにせよ、疲れるのは身体に悪いので、事件事故は起こさないに限る。

若い頃は、ぶつかり合うのも経験のうちで結構なことなのだが、還暦過ぎには適応できない。
無闇にはしゃがない、興奮しない、そして憎まない、怒らない。
要はクールに平常心で。
この要領を用いれば、あと数年はいい仕事がやれそうにも思う。

いい仕事をしたいという欲はある。
だが問題は、そのいい仕事という定義が、時代と共に変わっているらしいことだ。
今現在というものは、私にとって、とても分かり難い。
つい数年前までは、時代を語る本を読んだり、テレビを見たりしていて、その時々の潮流みたいなものが感じ取れた。

それが、このところ、からきし分からない。
まずもって、人間が分からない。
私と同じ人間が生きているのかどうか分からないほど。
だから、何をすれば的外れでないのかも、良く分からない。
人と人が、共感している様を見ても、本当にそれで良いのか、嘘か勘違いなのではなかろうか、と勘ぐってしまう。
多分、こう感じているのは、私独りではないはずだ。
同様のことを感じている人は、他にももっとたくさんいて、その不安とか淋しさの風が辺りに吹いているような気がする。

今までと同じように努力することが、とても滑稽で、無駄なことかも知れないと、心の底の方で感じる。
それは、私が年を取ったからなのだろうか。
それとも、その風は、あまりに時代が速歩で進むために、必然的に巻き起こっているものなのだろうか。
誠実に頑張ってきた人たちの首筋を、冷たい手でひらりと撫でていく、時代はそんな風に残酷に変身するものなのかも知れない。

前回ブログを書いた1月末からずっと、喉の調子が最悪だった。
以前、無茶をして失声した経験もあるけれど、その時でも10日間で声は戻り、ライブで歌う間にめきめきと回復した。

今回の不調は咳から始まった。熱も無く、風邪を引いた実感も無いのに咳だけが止まらない。
出会う幾人かの人々が同様の状態にあったので、今年の風邪は咳なのかと思ったりした。
次第に声が出難くなり、レコーディングを控えていた2月始め、親しい耳鼻咽喉科の先生に診て頂いた。声帯の左半分が真っ赤に充血していた。色々な処方をして頂き、薬を飲み、吸入をし、何とか声は出続けた。それでも、レコーディングの出来について、とても不安が残った。
やがて、咳は止まり、しかし痰の絡み方が半端なく、ライブの度に、5割しか声が出ていない、今日は7割だ、と落胆した。

けれど意外な事に、聴いて下さった方たちは、それほど酷く感じないと仰る。
私の体感では、ほんとに酷い声のはず。

レコーディング後に、ラフミックスを聴きながら、ギタリストの加藤さんとメールのやりとり。全然納得いかないと嘆く私に、加藤さんは、「声が出ないことで君の弱さが出ていて、それも良いと思うよ」と。
あっ、と思った。

偶然なのか、3月はブッキングに手こずってライブお休みになっていた。
声は出ない、レッスンもなかなかうまくできない。
他にも、仕事がらみで様々な考え事の多い日々。
日は疾風のように過ぎ去った。

4月は打って変わってライブが続く。
私にしては、珍しいペースで週に2回ずつ。
久しぶりに会うメンバーとの楽しい演奏。
日によって声は、出たり出なかったりだったけれど、そのどれもがかけがえ無く、一度きりの体験だった。
常日頃、声ばかりに頼る歌い方を好きでは無いと思っていた。
声が完璧に出ないことこそ個性の源だとも思っていた。
理想の歌唱を追い求めて、しかし足りない部分を補う表現力。
それを目指していたはずだった。
けれど、どこかで、ボイストレーナーであることに、責任を感じすぎていた。
トレーナーなのだから、声は出て当然だ、とばかりに。

ピアニストは、行く先々でコンディションにばらつきのあるピアノを弾きこなさなくてはならない。
それは大変なことだろう。
ボーカリストは、日々の体調により、鳴らない声で何とかしなくてはならない日がある。
鳴らなくても、出なくても、その中で何とかする。
その中で、発見したり、感じ取ったりすることもある。

楽器のプレイヤーが、技術を追い求める時、それを何に使うかを見失うことがある。
いわゆる、テクニックに走って、内容に乏しい、とか。
テクニックはあるが、心に響かない、とか。
疑問の余地無く、音楽をやるからには、技術は磨くべきだ。
それは、今心に湧き起こったことを、そのまま表現するために使いたいから。
コンディションが悪いときでも、心に湧き起こることは変わらない。
それを逃さず、大切に、表現に昇華するはたらきが、技術の手前に存在する。
このはたらきを、技術と呼ぶのには抵抗がある。
これは技術では無く、芸術かも知れない。

演奏する人の中に湧き起こるものを、きっとオーディエンスは見守っている。
私の中に湧き起こるもの。
輝きや、惛さや、嘆きや、喜びを、見守ってくれてる。
声は、完璧でなくても、私という存在が想いに溢れていれば、何とかなっていくのかも知れない。

音楽は、技術が無くては出来ないけれど、それよりまず、心が動かないともっと出来ない。

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