2004年5月アーカイブ

なまけもの

user-pic
0

 テレビの探検もので、アマゾン川が映った。
 真剣な表情の藤岡弘隊長は、どんなことを言っても、日常会話すらセリフになってしまう。
 アマゾン川には、半漁人がいるらしく、今回はその怪物だか怪獣だか怪魚だかを探しているのだった。
 「あっ、あれは何だ!」
 川に動物の死骸みたいのが浮いている。
 「動いているぞ」
 すくい上げると、それは、なまけものという動物だった。
 猿のようにも見えるが、猿とも違う。
 全体、とっても気持ち悪い動物である。
 何しろ、立てないのだ。
 いつも長い手で木にぶら下がっているのだが、陸に下ろすと、腹を下にしたまま、へなへなへなと平らになってしまう。
 当然歩けない。
 しかし、泳ぐことはできるらしい。
 「なまけもの」と名付けられるくらいだから、動作は非常にゆっくりしている。
 泳ぐときは、ある程度の速度で水を掻かないと沈んでしまうものだが、なまけものは、ものすごくゆっくりと水を掻いていた。
 多分、身体の比重が水より軽い。
 水の中に入れば、じっとしていても浮いているのだろう。

 木にぶら下がったり、ゆっくり泳いだりということは、他の動物にとって大変なことではないか。
 ほとんどの動物は、4足で立ったり走ったりしているときが普通の行動である。
 他の動物にとって大変なことが普通にできる場合、普通であることが困難になる。

 私は、子どもの頃、なぜ自分は普通にできないのだろうかと悩んだ。
 異常な負けず嫌い。
 好きになるととことんやり抜かないと気が済まない偏執的性格。
 自分の世界で膨らませる妄想を得々と開陳してしまう無防備。
 これらのために、呆れられ、誤解、中傷の的となることが良くあった。

 ところが、音楽の世界に足を踏み入れてみたら、私なんざまだまだぬるかった。
 私の数倍、顰蹙を勝ち取る猛者がいくらでもいるのだった。
 ホッとしてずいぶん変な人になった。
 実家に帰ると、その変人振りを恐れられ、悲しまれた。
 だが、音楽界にとどまりたいのであれば、そのテンションを維持していかないと、踏みつぶされるのだ。

 やがて、子供を産んで母親になってみたら、そのツケが一気に回った。
 数年間はノイローゼ一歩手前。
 よくここまで生還できたものだと我ながら感心。
 運が良かった!!

 ただし性格はすごく変わってしまった。
 負けず嫌いも、偏執狂も、妄想も全部衰退してしまった。
 何か引き受けても、せっせと取り組めない。
 成功させようとか、成果を上げようとは思わない。
 誰かに後ろ指さされても、腹も立たない。
 静かに、自分の好きな音楽を聴き、ときどき好きなミュージャンと演奏でき、こういう駄文を書き散らしていられれば満足。なるべく余計なことはしたくない。
 テレビのシカゴホープも好きだったが、今はホワイトハウスが面白いということだけで充実してしまう。
 
 日和ったのか適応してしまったのか年取ったのか、ただのなまけものになっている。
 ある意味、じつに惜しいことをした。

 弟がコメンテーターで出演するというので、TBSの「雅子様特番」を見ていてつくづく思った。
 誰に迷惑がかかろうと、自分の好きに生きないと、結局それ以上の迷惑をかけてしまう状況に陥る人が絶対にいる。
 ついつい良い人でいると、自分が病んでしまう人が絶対にいる。
 我が儘とか、精神力がないとかではなく、個別性が際立っているために。

 なまけものはなまけものらしく、木にぶら下がったり、死んでるみたいに泳いだりして人生を全うすれば、「きゃー、陸に上がるとキモーイ」と嘲られることもないだろう。それらしく生きれば、幾分でも他人様の役に立つことだってできるかも知れない。

 つまりこれ、自分の有り様の、ただの、言い訳ですけれど...。

 世界って、秩序を定めた途端、はずれる人ばっかりになる。
 誰の目から見ても、社会とは、変な人や極端な人がこぞって参加しているどうしようもない混沌だと思うんであります。
 だからくれぐれも、相対化ばっかりしないこと。
 絶対的存在が60億人(だっけ?)以上載っかっている地球と思うと、けっこう感動しません?


犬相撲

user-pic
0

 イチローが凄いことになっているので、毎朝、衛星放送でマリナーズ戦あるかな、と新聞のテレビ欄をチェックしている。
 その際、必ず「えっ、犬相撲・・?」と驚く羽目になる。
 いえ、実際には「犬相談」という番組。
 もう、かれこれ5回くらいは読み間違えている。
 「犬相談」と「犬相撲」。
 何となく、字面が似ておりませんでしょうか。
 この番組、NHK衛星の18Chで午前11時からやっているのです。
 その前は10時からクラシック音楽。
 (一昨日はゲルギエフが振っていました。どう見ても、一層変になったジョー・コッカーみたい)。

 それにしても、読み間違い。
 どうして、毎回読み間違えるのだろうか。
 私が探している番組がスポーツ番組であることが関連しているだろうか。
 それとも「犬相談」というネーミングが、そもそも不自然だからだろうか。
 テレビの番組ならば、
 「愛犬といっしょ」とか「ペットと暮らす」とかではないのか。
 それが「犬相談」。
 テレビ欄はスペースの問題があるから、簡潔にまとめた、とは思うが...。

 今日この文章を書けば、多分もう二度と「犬相撲」とは読まなくなるだろう。
 ちょっと残念。
 「えっ!」
 と驚くのって、いい刺激なんだもの。

※ 後日談
 これを書いてしばらくしてテレビ欄を見たら、この時間「猫相談」に変わっていた。
 猫の場合は、相撲とは読まず、怪談かと思うようである。

捨てる気力

user-pic
0

 買い物は楽しい。
 何か作るのも楽しい。
 問題は、ものが増えるということ。

 1955年という私の生まれ年は、昭和でいうと30年。
 戦後10年目である。
 親たちは莫大な買い物をした。
 電化製品や衣料品、旅行のお土産、中元歳暮、誕生日プレゼントや祝い事の度の引き出物、行事の用具、日用品。

 とにかく欲しかったようなのだ。
 海外からの珍しい到来品やら、各地の名産品、果ては価値があるのかどうか怪しい美術品まで。
 私の実家と夫の実家はともにものすごい量の物で溢れている。
 そして当の持ち主たちは、ひとりを残して他界してしまった。
 かつて、ものを持っているということは、財産家ということであった。
 だが、そう思っている間に、ものを捨てるのが困難な時代が来てしまった。
 ものを捨てようとすると、大層なお金がかかる。
 こうなると、使いようのないこれらのものは一体何であるのか、実に、意味不明なことになってきた。 

 先日、地元で夏まつりを催した。
 一昨年まで、21回続いた大規模なまつりがあった。
 新興団地に入居した意気盛んな人々が立ち上げ、毎年拡大してきたまつりだった。
 まつりを仕切るのは事務局長で、体力実行力人心把握ともに有能な2人の女性が歴代の事務局長を代わる代わる務めてきた。
 ところが引っ越しされたり体調を崩されたりで引退、なぜか最後の2回だけに限り、私がその重責を負うことになった。
 やってみたら、それはそれは、筆舌に尽くしがたい大変さであった。ボランティアで3ヶ月かかりきりというのは正直つらい。
 ために、3度目にはさすがの私も引き受けかねた。
 すると、21年間続いたまつりは呆気なく中止になった。
 8月末の土日、2千人からの人々を集めて大規模に開催されていたまつりがなくなってみると、大変すぎて手伝いたくなかったという方たちからも、再開してみようかという声が挙がり始めた。
 しかし、事務局長の引き受け手はない。
 百数十万円あった予算も計上されなくなっている。
 さらに、会場とされていた校庭をもつ小学校は、統廃合のため社会教育や福祉の総合施設に変わっている。
 それでも、地域の福祉団体が立ち上げてくれたお陰で、例年の10分の1かそれ以下の規模ながら、まつりらしきものを開催する運びになったのだった。

 倉出しの日、倉庫を開けると、あるわあるわ、かつて道路や会場に張り巡らした電線、照明器具、提灯、アーチ、みこし、装飾や看板、わたあめ、かき氷の機械、ヨーヨー、金魚すくいの水槽、備品、景品、はっぴ、事務用品などなど、軽く倉庫に2つ。
 関係したことのない人々には、何が何やらさっぱり分からない物品がどっさり。
 一体これらをどうしたものか。
 捨てるにしても、誰がどう判断して、捨てるものを決定すればよいのだろうか。

 倉庫を開けて、私は自分の二軒の実家を思い出していた。
 自分ではない、誰かが買い集め、ため込んだものの山。
 それをどうにかしなくてはならない。
 実行するのは、私の世代なのだ。
 そう思いながら捨てる過程に思いをいたし、どっと押し寄せる徒労感に苦笑いする。

 ものを捨てるには、かなりの精神力が必要だ。
 捨てるとは、買い集めた人々の憧れや満足に思いを致す作業だ。
 一生懸命働いて、やっと手に入れたもの。
 折衝を重ね、工夫して予算を勝ち取ったときみんなが感じたであろう喜びや達成感。
 かつて沸き起こったはずのさまざまな情熱を思いながら、その後の時の流れが意外に速かったことを自分に言い聞かせる。
 ひとつずつ、すでに使いようのない無用の長物と化していることを確認し、それを自分に納得させ、そこにはいない当事者たちに詫びる。
「すみません、とっておきたかった気持ちは分かります」
「とって置いてあげたいのですが、止む終えません」
 胸には、捨ててしまうことに対する後ろめたさや、後悔するかも知れないという心配が錯綜する。
 溜め込むだけで、知らんぷりを決め込む人がある。
 後進に道を譲るというきれいな言葉。
 しかし、後進は人数が少ない。
 これからどんどん世代ごとに人数は減り続ける。
 そしていつも後始末だけが残る。

小樽の青春

user-pic
0

 突然、シバ君からメールが届いた。
 25年も音信不通だった親友。
 読み始めてすぐ、涙が溢れる。
 だって文章が優しいんだ。


 小樽の高校で、シバ君はなかなか目立つ存在だった。
 大人びていて、ひねくれていて、アーティスティックで、意地悪で。
 何より、曲作りのセンスとギターのテクニックが素晴らしかった。
 小樽近郊の田舎町からSL機関車でその進学校に通っていた私にとって、彼は正に、初めて出会う「才能」だった。
 中学時代から、私は私で、ガットギターを抱えてフォークソングを歌っていた。
 どこでどう接近したのか、いつの間にか私たちは一緒に演奏して遊ぶようになった。
 彼は、ツーフィンガーやスリーフィンガーをバリバリ弾いて、高田渡さんの話やら、詩人の夢枕獏の話しなんかをしてくれた。
 知らないことばかり。
 私は感心して、感動し、競うように本を読んだり音楽を聴いた。

 シバ君は、絵描きになりたいと思った。
 美術部に所属し、いつも汚い白衣を着て絵を描いていた。
 美術室は音楽室の下にあり、混声合唱団にいた私は、その音楽室でソプラノパートを歌っていた。
 シバ君にとっては、合唱部なんて「へっ」て感じだったらしい。
 美術部のゴミを燃やして煙を出す嫌がらせ。
 真面目な音楽部員は、そのひねくれた絵描き志望の不良が私と仲良しなのが解せないらしかった。

 ある日、シバ君は、もうひとり素敵な友だちを連れてきた。
 隣の高校に通っているひとし君。
 彼は、シバ君よりかなり絵が上手く、ギターも同じくらい上手かった。
 負けを知らなかったシバ君が、尊敬する数少ない友だち。
 今度は三人でのフォークグループということになった。
 音楽の練習と、私をモデルにしてのデッサン練習。
 ひとし君のデッサンは、本当に素晴らしく、想像をはるかに超える美術の「才能」が、突然身近になった気がした。
 私たちには、さまざま恋愛も入って、青春満喫。

 書き始めたら、小説になっちまいそうなくらいたくさんの思い出。
 10年前まではそれが生々しくて、思い出すと少しにがかった。
 でも、今は自分の幸運に感謝する。

 小樽潮陵高校で私はシバ君に出会い、負けるのが悔しくて本を乱読し、歌い、そして自分に期待した。

 私の人生は、彼らと出会わなかったら変わっていた。
 もっと楽になっていたか、辛くなっていたかは知らない。
 でも、出会えて良かったと、心から思う。
 だって、思い出すたびに、私は必ず、少し微笑んでいるんだ。

音楽には様々なジャンルがある。
音楽を仕事にすると、ほとんどの場合、どのようなジャンルを専門にするかを問われることになっている。
私の場合、軽薄に広すぎて恥ずかしいのだが...。
自分が歌う場合はジャズが主で、企画によってはR&B、カンツォーネやシャンソン、J-pop、歌謡曲までトライするし、さらに教える場合にはゴスペルから演歌まで、ジャンル問わずなんでもあり。
ライターとしては、クラシック、オペラの解説が主となる。
全く成り行きでこうなっている。
それに従って、毎日毎日、音楽と呼ばれる事柄のありとあらゆる側面に触れ、時に探求し、練習し、分析したり理解したりしているつもり。

その幅広いジャンルの中で、なぜとくにジャズにひかれるのだろうか。

ジャズは、演奏しているとき、瞬間ごとに互いがコミュニケーションできる。
バンドのみんなと出会い、はじめに握手して「よろしく」と言い、それから音を出すと、ひとりひとりの中から、異なったリズム感や音に対する感性が溢れ出てくる。
「ほーー、そうかい」と受け取ったことを膨らませ、それに反応して、次はこちらが歌いたいように歌う。
歌いたいようにとは、声の音色、タイミング、強弱、表情のこと。
すると、それを聴いたメンバーはさらにイマジネーションを膨らませ、色々に反応してくれる。ジャズは、その場でそこにいるメンバーが創り出す即興性が大事。いつも同じ演奏をしたい人は、ジャズは止めた方が良い。

しばしば一緒に演奏しているミュージシャンでも、メンバーとしてひとりでも別の人が混じると、途端に演奏が変わる。その面白さ。
即興は、どこまで自由になっても、羽目を外してもいい。
ちゃんと基本の場所に帰ってこられるなら、遠くまで飛んでいっても全く構わないのだ。
どれだけ自由になれるか。
どこまで自分らしくいられるか。
1曲の中で連想を大きく展開できるか...。
それが醍醐味。

色々なジャンルの曲を歌ってみて、そういう意味で一番スリリングで、毎日違う気持ちで歌えるのがジャズなのだ。
ジャズで演奏するのは、主にスタンダードと呼ばれる曲。
スタンダードというのは誰でも知っている曲、言い換えればエバーグリーン、つまり、長く生き残って廃れない曲のこと。
1920年頃から60年頃までの間に、ミュージカルや映画のために作曲されたり、フォークソング、カントリー、ブルースなどにルーツをもつ数多の曲の中から、際立つ個性、メロディの美しさ、コード進行の機能性で支持され、歌い継がれ、演奏され続けてきた曲が多い。
歌ってみると、確かに、楽曲独自の力が強いと分かる。
たくさんの歌手やミュージシャンが取り上げる曲は、骨太でいて柔軟だ。

ジャズに馴染まない人にとっては、長い演奏中、いったい何をやっているか分からない、という点が困ったこと。
とくに、ビー・バップから後、モダン・ジャズの方法になると、即興について理解するのは難しい。
ジャズのできはじめの、ディキシーランド・ジャズやスゥイング・ジャズは、メロディが聴きとれるので分かりやすくて、誰にも馴染みやすい。
だが、演奏する側にとってはもう少し進歩させたモダン・ジャズやモードの方法が断然面白いのだ。

ジャズを聴くとき、私は曲ではなく、演奏する人そのものを聴いている。
ある1曲をどのように弾くのかを聞いている。
それから、その曲をどう展開するかを聴いている。
どんな風にイマジネーションを広げて行くかを聴いている。
そして、どうやって自由になって行くのかを聴いている。
自由の中味は、斬新な解釈やアイディア、感情のうねりとその幅の広さ、それを音楽で表現する技量、時には人柄、理想、美意識...。

1曲が15分とか20分と、他の音楽に較べるととても長いとしても、その時間の中で音楽と演奏家が鮮やかに変化する様を見て、聴いていると、全然飽きない。
飽きないどころか楽しくて、時間を忘れる。
ちょうど、面白い小説に没頭して、周囲の音も聞こえなくなっているときのような、快感と集中の中にいることができる。

オペラ同様、ジャズもメロデイを追うことよりは、音の快感に浸るのが目的。
つまり私の聴き方はいつも快感原則に従うということかも。

「細雪」ごっこ

user-pic
0

 私は、和服をどっさり持っている。
 着物好きな友人に見せたりすると、驚かれるほどである。
 だが、自分で買ったものは一枚もない。
 全部実家から送られてくるのだ。
 祖母は、日舞を趣味としており、終生着物だけで過ごした人。
 形見分けで残った渋い普段着が数枚と、粋な裏をつけた黒い羽織などがある。
 母は、正装のほとんどを着物にしていた。
 こちらはゴージャスなものと小紋、色無地に大島、紬など。
 もちろん、嫁入り道具とかいう着物もひと通り揃えてもらったので、見渡すと、死ぬまでに着る着物が全部あるという感じだ。

 それが全部タンスの肥やし。
 全く着ていない。

 ある日の酒席で、現在お着物にどっぷりとはまっている編集者のSさんが言った。
 「ねえ、秋の紅葉の頃、小金井公園あたりで、ささめゆきごっこ、しない?」
 その「ごっこ」の中味は、そこにたまたまいた四人の女して、和服で集まろうというものである。
 「ほら、歳も一個ぐらいずつ違うし、なりきって集まろうよ」
 その伝で行くと、Sさんは三女の役。
 市川昆監督の映画「細雪」なら吉永小百合の役だ。
 「あら、私が小百合だわ」
 とSさんだんだん盛り上がり、私は古手川祐子ということになった。
 ならば振り袖着ても良いのだろうか。
 あの映画では、古手川、花見のシーンで桜の振り袖かなんか着ていたような気がする。振り袖、しかも桜のがタンスにあるんだ。縮緬で、白地に桜と扇の模様を散らした振り袖が。あれ着てやろうかしらん。
 そこではっと我に返る。
 予定は秋。
 私は、しじゅうはちである。
 でも、この「ごっこ」には心が躍る。
 着物を着たくなってしまう。
 四人の中でひとりだけ貧乏暇無し余裕無しの私だけれど、思わず声を張り上げてしまいました。
 「細雪ごっこのための電話連絡網作ろうか」
ちなみに、その日たまたまひとり混じっていた男子、好青年のGさんは、その行事に於いて石坂浩二をやる羽目になったのだった。
 Gさん、すいませんねえ。

職業病とまでは言わないが、仕事に影響されたクセ、というものがある。
私の場合は、ライターとして読んでいる本や新聞で役に立ちそうな情報をチェックするということがある。
新聞は切り抜き、本には付箋をつける。

娘が買ってきたananをめくっていたら、広告ページで手が止まった。
ビジネススーツを着た美しい外国人女性が、洗面所にエイやっという感じで片足を突っ込んでいる。
何事かといえば、足が匂わないように洗っているのだ。
足が臭くなるのは、何もおじさんばかりではない。
キャリア・ウーマンだって、足、臭くなるんですぞ。

長女は、この春から会社勤め。
わが家系始まって以来の民間の会社員である。
私の家庭は、みんな歯医者、医者。
夫の家庭は教員か音楽家。
自営と公務員しかいない。

それらの悪しき部分をたっぷりと見てしまった長女は、全員を反面教師としてしまったのか、お堅い四年制の女子大を優秀な成績、及びほとんど皆勤賞で卒業して、民間の堅い会社に就職した。
すごい選択。
そして毎日、朝7時というと弁当をもって会社に行く。
その彼女が言うには、外回りの営業をするためには、思いがけない部分に経費がかさむ。曰く、お口の臭い消し、汗脇パッド、服と靴の消臭剤、鎮痛剤に胃薬、などなど、テレビで日々コマーシャルの流れる物品が「まったく、その通りでした」という感じで必要であるらしい。
自由業や自営ばかりだった家族からすると、ほとんど縁のないものばかり。
でも、高温多湿の東京でスーツにパンプス、日々、電車に乗り継ぎ、歩き続け、汗にまみれて働く女性たちは皆、足のマメ、靴擦れ、汗、わきが、化粧くずれに口臭と戦いながら頑張っているのだ。
その情報を、「ほーー」と聴きながら早朝に弁当を作るぐらいしかできない私としては、足の臭いを無くします!!と謳って、キャリアウーマンに無理な足上げ姿勢をさせたコマーシャルが、身近なものと映ったのだった。
反射的に付箋を探しました。
付箋つけて娘に見せようとしたのでした。

でもね、変だよね。
見せてどーするんだ?

親孝行するぞ!!

user-pic
0

 親は大切にしなくてはならない。
 大切にして、時には喜ばせなければならない。
 しかし、親との経済格差が10倍あれば、何をプレゼントしても喜ばれない。
 ある時、帰省したら父にプレゼントしたはずのゴルフシャツを着ていたのは、近所のおじさんだった。
 父は、銀座あたりの店のシャツしか着ないのだった。
 そして私が贈ったのは、SEIYUのバーゲン品だった。
 そんなもの贈らなければよいのだが、父の日には何かを贈るべきだと信じていた。
 信じて、子どもたちのトレーナーを5枚買える値段を父のゴルフシャツに投資したのだ。
 残念だった。

 親孝行をしたいときには、親はもう死んでいるということになっている。
 子が出世して、さあ、何でもしてあげられると思ったときには、親はこの世にいないということだろう。
 ところが、私の場合、子が親より金持ちになるチャンスは無かった。
 何か買ってあげようとしても、段ボール箱いくつも、着たくなくなった和服を送ってくるような親に買ってあげられるものはない。
 親の方がたくさんの貯金と高価な品物を持っている。

 それでも、ぜひとも私は親孝行をしたいと思うのだ。
 ある日考えついた。
 親孝行とは、親密であることをやめないということではないか。
 しかし、全く違う環境、職業で暮らしていると話はほとんど通じない。
 帰省すると母はいろいろな世間話をするが、話題に登場する彼女の知り合いを、私はほとんど知らない。

 娘である私を可愛がり、肩入なぞれすると、同居する嫁に悪いと思っている母は、私に冷たくするのが正しい姑の在り方だと信じているから、さらに話は深まらない。
 話題というものは、禁止が多いと盛り上がりようがないものだ。

 だが、子どもは、一方的にであれ、親と親密であることはできる。
 親を忘れず、しばしばわが身を省みるための素材として用いればよいのだ。
 私はいつでも、私を成している構成要素として親のありとあらゆる影響を取り出し、その味わいを吟味することができる。
 ある日ある時の親の行動、表情、声の調子。
 その背景にある、前意識、無意識、防衛。
 さらに、その一つひとつに対する私自身の反応。
 生育歴、記憶、連想、神経症、強迫観念。
 
 おそらく、私はかなり親密に親を迎え入れている。
 コミュニケーションは通り一遍であっても、5分の電話の内容からでも、最近、何が彼女の中で起きたのか、様々な葛藤を空想することができる。
 それは、単なる妄想かも知れず、ただ私の中にでっち上げられた仮定的な母親には違いないのだが、そうではあっても、私は、誰よりも緻密に母の人格を知っている。
 なぜなら、母の剥き出しの無防備な人生の傍らに、私はいたのだ。
 ことあるごとに親を取り出してじっくりと分析する。
 これは最大の親孝行ではあるまいか。

オペラ

user-pic
0

オペラについての原稿を書くことがある、と言うと
「えっ、オペラですか」
たいていの人、ぎょっとして3歩ぐらい退く。
オペラに対しては、なぜだか、皆さん極端な偏見を向ける。
多分、テレビの衛星放送なんかでオペラを観て、「あっ、こりゃだめだわ」とチャンネルを変えた経験がある?

舞台の上で、デコラティブな衣装を着たデブたちが、ワーワー叫んでいる。
話の筋なんか冗長で、1~2曲聴いたら、眠くなってしまう。
これを好きな人って、いったい...?
そう。オペラ放送ってそういうもの。
「なんだかなぁ...」なんです。
でも、オペラはテレビで観ちゃダメかも。

だいたい、舞台というものは絶対にテレビサイズの画面に収めてはいけないもの。
見ている方は窮屈で叶わない。
我慢してしっかり見てろ、と言われても、生理的にギブアップになってしまう。
だって舞台とは、空間でしょ。
空気感というか。

ところで、オペラ。
オペラが奇妙なものに見えるというのは、日本人として正常な感覚だと思います。
正常な感覚の持ち主が大多数であれば、偏見は当然かも。
でも、いざ"オペラ通"とか、"オペラが分かる人"に出会うと、みんなちょっと悔しいみたい。
"宇宙物理学が分かる人"、とか"チベット仏教が分かる人"に嫉妬するのと同じように。
はじめは、「ホントに分かってンのかよ、怪しいもんだよ」と疑う。
でも、オペラ好きが子どものようにはしゃいで蘊蓄を開陳するその姿を見ると、「オペラに惚れることは可能らしい」と思い始める。
次には、「ならば何で私にゃ良いと思えないのかな...」と疑問符が。
何が不足して、オペラが分からないのか?
もしかすると好きになってみたいかも...と思ったりする...(一時の気の迷いである場合が多いが)。


音楽は分かろうとしたって、ダメみたいだよ。
まず、がんがん流して浸ってみないと。
気持ちよければ、続けて聴いて、飽きたら別のに変えて、色々聴いているうちに、突然、その音楽が好きになる瞬間がやって来るのよ!
オペラに興味がわいたら、とりあえず、レンタルでもいいから、有名な作品を大きい音響で聴いてみて下さい。
輝かしい声、ロマンティックな声というものを目の当たりに出来ます。
オペラの歌は声や表現力を聴くもの。
メロディを追っちゃダメです。
とにかく、鳴り響く美声に身を委ねる。
美声とオーケストラの競演に浸る。
すると、不思議や、何だか気持ちよくなってくるのです。

この感覚を掴めば、あなたにはオペラファンになる素質があります。
きっとね!!

あの人は良い人だ、とかイヤなヤツだ、とか、会話の中身のほとんどは他人に対する評価や感想のようなものだったりする。
たいていの場合、あらゆる物事に関して、好きか嫌いかばっかり言っている。
世の中の価値基準は、自分の好き嫌いに従うべき、という世界観。
さらに、好き嫌いの根拠として、様々な理由をあげたりもする。
しかしそんなもの、聞いている側からすると、ただの後づけ、こじつけだろうな。
だって、好き嫌いに理由なんてないでしょ。
理由をつけられるのは、自分にとってその人や物が有益であるかそうではないかについてだけではなかろうか。

素直すぎる好き嫌い人間による、
「あの人は嫌いだ!」
という熱弁に対して
「いやあ、あなたはそうおっしゃるけれど、あの人にも良いところはあるんだよ」
と、諭し始める人もいる。
「どんなひどい人でも、悪いところばかりではない。深く付き合えば、愛すべき部分も持っているものだ」
そういう人に優しそうな話なのだがね。
それ、実はそう思っている方がラクなだけじゃないのか。
誰かを嫌っている自分って、居心地悪いものだからね。

人を嫌悪することを躊躇うと、世の中は意外にややこしいことになる。
人生相談で
「アル中、博打好き、女好きで借金を作るひどい夫」
というものに対して
「でも、お子さんは可愛がるんでしょう」
などと答えるバカがいるが、そういう手合い。
お子さんを可愛がるからって、家族が暮らせるのか、と思う。

良い人と悪い人という分け方と、好きな人と嫌いな人とは、別のことだ。
人がなぜ悩むかと言えば、
「好きなのに、どうしようもない人らしい」
と気づくからだ。
好きだから、自分のために良くあって欲しいとか、変わって欲しいと願う。
それが果たされないから傷つくし、悩むんではないか。

好きでなかったら、相手に対して何かを願ったり望んだりしない。
好きでなくなると、相手との関係に於いて挫折も絶望もしなくなる。
あとはただ離れるだけ。

「いやあ、あの人にも良いところはあるんだよ」
という発言には、愛が感じられない。
感じるのは優位性と、保身だけ。
バカと感じる人に対しては怒りながら、
「あいつはバカでどうしようもない」
と罵るだけで十分だ。
その後に、
「でも、好きだけど」
と言っても別にいいわけだよ。
でも、好きだと言えないなら、
「良いところもある」
なんて、口にしないのが愛だと思うな。
そいつがどうしようもないために困っている人を相手にしては、とくにね。

時間がない

user-pic
0

平日の午後3時過ぎ。
ケーブルテレビ、チャンネル41では、ピーター・グリーナウエイ監督の『コックと泥棒、その妻と愛人』という映画が消音設定にて上映中。
コンポからは、ウィーン・フィルハーモニー、サー・ゲオルク・ショルティ指揮によるワーグナーの楽劇『ニーベルングの指輪・第2日ワルキューレ』が流れている。(1965年版だから、私まだ10歳!)
これらに囲まれて、私は原稿仕事をしております。

なんだか贅沢だ。
贅沢で、スノビッシュで恥ずかしいほどだ。

いつもいつも、ながら族である。
ひとつのことだけしていると、退屈なんである。
テレビを見るときは、傍らにリモコン・チャンネルと本と新聞を持つ。
つまらなったら、すぐにチャンネル変え、コマーシャルの間は新聞か本を見る。
漫然とコマーシャルを眺めるなんて、時間の浪費、退屈。
そんなことで活字に集中できるのか、と思われがちだが、この合間読書で結構シャープに良いフレーズが見つかったりする。
とにかく、いつも色々な楽しみが身の回りに豊富にある、という状況でないと我慢できない。

話変わるが......
20歳前後の頃、植草甚一のエッセイにはまった時期があった。
読んでも、読んでも、知っている本もアーティストもほとんど出てこない。
だいたいが、アメリカのミステリーとアバンギャルドなジャズなんかについてのだらだらーとした感想だったと思う。
植草氏は、1970年代、頻繁にューヨークなんかに居り、日本人の知らない古本屋や中古レコード屋で掘り出し物を見つけていた。
そして、舌なめずりしながら、それらを読み、聴き、感心したり、蘊蓄を垂れたり、連想したりしていたのだ。
それをだらだらー、と書いた長々しい独り言を本にしたものが、洒落た装幀で、晶文社から何冊も出ていた。
箱入り、なんてのもあったな。
植草氏ご自身のコラージュの装幀だったりしたかな。

20歳位の私がそんな本を読んで何が面白かったか。
間違いなく、私が好んだのは、植草甚一の「面白がっている感じ」だった。

それ以前、高校生ぐらいの時には、戸板康二の歌舞伎評論ものが好きになっていた。
人口わずか2万人の北海道の田舎の町にいたので、歌舞伎なんてNHK教育テレビでしか見たこと無かったのに、どうして評論だけを楽しめたのか。
それは、「面白がっているのを読むのが面白かった」からである。

誰かが何かに感動して、あれこれ要らないことを喋り散らすのを見ているのが好きであった。
自分のことで言えば、好きなミュージシャンの新譜が出ると、晩メシ抜いても買いたい、聴きたい。それを手に入れれば、家に帰って針を落とすまで、わくわくわくわくわくするものだが、そのわくわくわくわくわく気分が、伝わってくるような書き物が好きだ。

この世には、私が聴いたことも見たこともないものにして、爺さんたちをこのようにわくわくわくわくわくさせるものがいーーーっぱい埋もれている、と知って、宝の地図を見せられているような気分になった。「あーー、まだまだこの世には私の未体験な感動がわんさか埋もれているんだ」と、生きる勇気...じゃないな、生きる下心のようなものを励まされた。

まぁ、これに騙されて今日まで生きてきたようなものだが、依然、この年になっても、まだ命根性は汚く、欲深く、平日の午後3時にこういうことをしている。
恥である。

友だちのジャズ・シンガー清水秀子ちゃんを聴くと、私はいつも、どうして彼女のように落ち着いて、じっくりとできないのか、と残念に思う。
私は、いつもチャカチャカしていて、気が多い。
気が多いというか、気が散っている。
落ち着きたい。
落ち着きたいが、テレビもコンポも消せない。
書く手も止められない。

だって、時間がなーーい、んだもの。
あっ、ひょっとして、私、早死に??

男の居場所

user-pic
0

ある日、思った。
なんでおかまはいっぱいいるのに、逆は少ないのだろうか?
ニューハーフとかおネエ系とかも含めると、女性らしい男性はあちこちで目につく。
カリスマのようになっているタレントもたくさんいる。
でも、逆に男のように見せたい女性は少ない。
なぜなんでしょう。

歌を教えていると、男と女では音域にずいぶんと差があることが分かる。
女声は、ほとんど似たような範囲に収まっていて、はみ出る人は珍しい。
しかし、男声は、ものすごく低い声から女性のように甲高い声まで音域の個人差がとても大きい。

声ひとつ取っても、バリエーションに富む可能性のある男性と平均的なところに集中している女性。

男にはシュワちゃんもいるし、山咲トオルもいる。
その差って、長与千種と千秋の間にある違いより大きくないか。

男は、女より個体差の幅が広いかも知れない。
そのせいか、ひとりひとりの個性は強いよね。

女が男に色々なことを要求し、期待するのは、
自分、つまり女自身の融通無碍を基準にしてしまうからかも。
「お金稼いできて、家事も分担して、育児も手伝って」
それを、女はこじんまりとこなすことができる。
子供を産んで、家事をして、パートに行って。
一度にレベルの異なる色々な用事を、女は平行してこなしてしまう。
でも、そういうことを、男はなかなかできないみたいだ。

男たちは、ひとりひとりを見ると、わりと融通が利かない。
でも、融通の必要ない場面では力を発揮する。
いわゆる、専門職ってやつ。
そのことだけ考えていればいい、とうところにいて存在価値を認められていると男は幸せそうだ。

ところで、
長年家事をやってきた経験からすると、家の仕事はなかなか複雑だ。
簡単には引き継ぎできない。
家事というのは複雑に入り組んでいて、会社の部署のように役割を分担して進めると合理的ではなくなる。
食事だけ作るとか、洗濯だけするとか、あるいは掃除だけする、という形態に分けられるものでもなく、何をするにも全部がちょこっとずつ関わっていて、それぞれを独立させるのが難しいのだ。

そんな家事を男に任せようとすると、単品注文しかできない。
掃除ならば、「ここをこういう風に拭け」、と指示すればやってくれる。
しかし、家事としてやるべきこと全てを全日に配分して、
それぞれ、隙間隙間にこなして行くのは苦手みたい。

家事で重要なのは、家庭のハード面とソフト面についてどのようなイメージを描いて動いていくか、ということ。
会社で言えば、総合プランニングみたいなことかな。
これが各企画に分かれ、やっと具体的な設計に至る。
主婦の手腕の在処は、家庭の在り方についてのイメージ力と段取りなんだね。

家庭は、誰を、何を優先するかによって絵柄が変わる。
子どもか、妻か、夫か、あるいは祖父母か。
その中の誰のどんな都合か。
家のレイアウトもインテリアも清潔度も食事の栄養価も品数もかける手間も時間も家族の誰が何をどんな風に必要とするかで色んな風に変わってしまう。
それを分担でやり通すのは大変だ。


私は、仕事を家事に優先せざるを得ない、と分かったとき、家庭の美観を諦めた。
とにかく、洗濯はしよう。
朝ご飯と弁当は作ろう。
他は、成り行き。

残念ながら、十年以上整理整頓と掃除に頑張ってきた家庭は妻、仕事優先の結果、五年で足の踏み場もなくなっている。
プライバシーもへったくれもない。
今日生きて、明日が迎えられればいいや、というサバイバルな感じ。

その点、男は気楽なものだ。
我が家の男二人は、家が汚くなってもやっぱり自分の好きなことしかしない。
自分が楽で、楽しいことしかしない。
そんな家にいると罪の意識がわく女たちは、外に出かけてしまう。
家に女の溜まり場が無くなると、女は家に帰ってこなくなるみたいだ。
汚い家を見て、「ああ、掃除も片づけもやらなくちゃ」と思うよりは外で働いている方が楽しいもんね。
そして家庭は果てしなく乱雑さを増す。

男が家に居続けると、家庭が崩壊する、ってことはないだろうか。
定年退職した男が家にいることにしたとたん、鬱病になる奥さんがいっぱいいる。
予防のために、奥さんたちはなるべく外に出かけていく。
それでやっぱり家はひっそりしたりする。
男が外で稼いでいるとき、「手伝ってくれない」と不満だった奥さんたちは、せっかくいてくれても役に立たないばかりか、何かにつけて文句ばかり言ううるさい旦那に愛想が尽きる。

でも、男はそういう風にできている。
卑屈な男には魅力もないしね。
だから多分、男の居場所は家庭ではないのだ。

感情の嵐

user-pic
0

歌手なので、ミュージシャンや歌を趣味とする人々とのつきあいが多くなる。
いわゆる、芸術家肌の人とかアーティスティックな人々。

時々ピアノ伴奏をしてくれる友人、今井由美子女史は、歌手の人となりについて、幅広い知見をお持ちである。
私が何かすると、
「ふふーん、歌手らしいね」
あるいは
「えっ、それって歌手らしくない」
などという評価の仕方をする。
彼女のいわんとするところを私なりに整理すれば、歌手とは、不器用、目立ちたがり屋、自己中心的、直情的、派手、などの要素をもつ人らしい。
由美子さんたら、私に対して「そういう人であれ!」と言外に要求している気がする。
はは、その手には乗るか。

ちなみに私は、歌手の他に講師やら著述業やらをしている。
従って、それらの要素を丸出しにしてはとてもやって行けない(と思い込んでいる)。
いわゆる、事務的能力、客観性、協調性なども要求される(でしょ?)。

だが心の底で、私の実態は、由美子女史の人物評価、あるいは性格分析にある歌手体質以外の何ものでもない(とほほ)と感じないでもない(まだ抵抗)。

多分、自覚があり、その性格でははた迷惑だと知っている。
だから無理をしている。

無理とは、私なりの「鋼鉄の抑制下」に自分を置こうとすることである。
歌手的性格の逆、器用で、控え目、他人を思い遣り、冷静で、謙虚でありたい。

しかし、なんですね。
意識的な抑制というものは、大方の場合、使いどころを間違うものなんですね。
人間はそれほど意志が強くない。
自分に対する客観性もない。
悲しいかな、抑制を正しく使っていると信じているのは本人だけ。
実態は、大はずれ、的はずれ、とんちんかん、要らぬ堪忍...かも。
なのに当人は相当無理しているから、被害妄想をも患う結果に陥ったりして...。

はい。
じつは、私はわりと被害妄想型なんです。
心配性で、怖がりなんです。
他人様の気持ちばっかり尊重して生きてきました(つもり)。

しかし、もうすぐ50歳にならんという近頃、これが癪にさわってきた。
こんなまんま死んでたまるか、って感じ。
だいたい、歌手に復帰したのだし。
これからは言いたいことを言おう、感情のままに動こう、と決心しました。
感情に素直に、でも、言葉遣いだけは気をつけて言うつもりだったんですが...。
予想以上に色々な方面でトラブっています。

でも、石の上にも3年です。
私の価値基準からすると実にひどいことを言い募り、し続けている方々が、のうのうと生き延びているこの世間(と私には見える)。
私ごときが感情の嵐を小出しにしたって罰は当たるまい。
えっ、小出しにした方が風速が強い?
掃除機の出口が小さいヤツみたいに?

ならば、嵐吹き荒れろーーー!!

内部視覚

user-pic
0

私の父は変わった人で、超人に憧れていた。
茶の間の話題がチベットの「第三の目」だったという人はあまりいないかも。
父は、大正15年生まれだから終戦の年は20歳。
東京で歯科大の学生だった。
父によると、
「戦時中はネズミのように勘が働いた。引っ越す度に後にした場所が空襲で焼けた」
のだそうだ。
「人間は火事場の馬鹿力といって、切羽詰まると意外な力を発揮する」
とも言っていた。
子どもの頃から、時々断食をしたり、速読の練習をしたりしていたらしい。
1枚の絵を見て瞬時に頭脳に焼き付け、目を閉じて引き寄せ細部を見る練習、なんという、変わった訓練もしていたらしい。
まあ、ユニークな人である。

職業は歯科医で、鉄筋のでかい家を建てて何人も人を使って診療していた。
父の父、つまり私の祖父は、やはり歯科医だったが博打好きだった。
ために、父が戦後家を継いだときは首を吊りたくなるほどの借金だったというが、戦後のインフレと高度経済成長のお陰で無事返済し、その勢いで働いたので金持ちになった。
でかい自宅の茶の間で、様々な洋酒を傾けながら、父は超能力の話をした。
トランプを使って、透視能力の開発なんて遊びもした。
暗記の訓練などもした。
スパイ養成学校のようだ。

父が愛したものはこの他に芸術。
書を嗜み、アコーディオンを演奏し、油絵を描いた。
スポーツも好き。
ゴルフバッグもボーリングのマイシューズもビリヤードのキューまでもっていた。
社交ダンスがプロ並みにうまかった。
良く本を読んでいて雑学に長じていた。
歯科医師会はもちろんライオンズクラブとかボーイスカウトとか、青年会議所、若い医者の集まり、東京の歯医者の集まり、同期会、地元の同窓生、とやたらにつきあいが広かった。

何だかよく目立つひと。
華やかで、情に脆く、居住まいのきれいな人だった。

話逸れすぎ...。

とにかく、父は超能力を信じていた。
その影響かどうか、私と弟は一時、瞑想や印度に凝った。
お香を焚き、ブライアン・イーノとかを流してじっと坐るのである。
もっとも70年代は、世の中も神秘主義がブームだったのだ。
目をつぶって坐るのが趣味みたいな友だちがわんさか出現した。
けれども、私には瞑想する才能がなかった。
すぐ寝てしまう。
あるいはアイディアがわくのでメモに走る。
要するに俗物。
今でも、瞑想は苦手だ。
ただし、焦点の合わない目でぼーーっと考え事をしていることは多い。
そんな時は子どもたちに話しかけられても気づかないくらい集中している。

瞑想というより、考えているわけだ。
それが私に合っている。
しかし、眠る前にときどき、意図しない図柄が脳裏に浮かぶことがある。
細長い象が万里の長城を歩いているとか、変な顔の猿とか......。
その奇妙さは、「何で私こんなモノ思いつけるの」
とびっくりするほどである。
丁寧に思い起こせば、映画の場面のフェイクだったりするのだろうが、意図しないのにぞろぞろ変な絵柄が出現するとその仕組みが知りたくなる。
脳味噌って気づかないうちに色々なモノが詰まっているのだ、と知る。
いや、もしかすると脳は寝るときに裏返って宇宙と繋がるのか。
夢は宇宙の思考だったりして。

中沢新一氏の「神の発明」という本を読んでいたら、内部視覚というものがあり、洞窟などの暗闇でじっとしていたり目を閉じて瞑想していると額の辺り、つまり「第三の目」からまばゆい光の世界が開く、とあった。
そこに至る以前にも色々なモノが見えるらしい。
禅でいう「魔境」ってやつかな。
それらはたぶん、私が眠る前にかいま見るものより数段ゴージャスなのに違いないが、真っ暗闇で突然キンキラの光に包まれて
「これは一体何なんだ」
と驚いた人間が、神を発明したのではないか、というのですね。
なるほど。
八百万の神、ギリシャ神話の神のように人にアクセスする存在ではなく、手も触れられない絶対的なもの、超越的なものを想定したのは、人間の中に生まれ出る不思議な視覚イメージだった、という仮説。

科学的には、人間は五感に対する刺激を遮断されると、生命エネルギーが内部にせき止められる。
これが、行き場を失って幻聴幻覚となる、らしい。
薬物でも、同様の効果(?)が得られるともいう。
でも、人間って謎だらけだからね。
宇宙って何?
ここはなんで地球なの。
私はなんで人間なの。
そう考え出すと、背筋がぞ~っ。

はたして、脳味噌の中に神はいる?
それとも、存在自体を裏返すことができれば、一人一人が宇宙に放り出されるってことでしょうか。
せっせと座禅瞑想や荒行に励んでいる男性たちは、その果てに神を見たいのか。
あるいは、それによって宇宙を垣間見たり覚醒することを求めているのでしょうか。
でも、それやって楽しいのか?
俗物の私には、とんと分からないことである。

発声法というものがある。
理論ではない、と思う、多分。
歌はもちろん、演劇とか、アナウンスとか、朗読とか。
つまりは、他人が聴いたときに「うーん、いい声だね」。
と感心するような声の出し方のことである。

「いい声」は以下のように表現される。
きれいな声、心地よい声、魅力的な声。
これは声に対する印象。
同じことを技術の面から考えれば、
強い声、響く声、広がりのある声、タフな声。
ということになるだろうか。

そしてさらに
透明な声、深みのある声、ドスのきいた声、セクシーな声など
声を出す人の個性にまで広がってゆく。
性格や個性同様、声も百人百様だ。
圧倒的に押しつけがましい声から、かそけく守ってあげたいと思わせる声まで。
だが、元々がどんな声でも、必要なフィジカルを鍛えれば、
「うーーん、いい声」と言ってもらえる声になる。
これは本当。
楽そうに発声できるということはじつは、
基本的な技術が整っているということなんである。
体操選手や曲芸師は身が軽く見える。
野球やサッカーの選手にはボールが友だちのように見える。
軽々と動いてみせるためには、反射神経や筋力が不可欠だし、
実戦経験によって練り上げられたセンスも必要になる。
声で言えば、腹筋や整体のコントロールはスポーツにおける基礎体力、
イントネーション、滑舌などはボールコントロールの技術、
感情表現、パフォーマンス能力は試合センスということになるだろうか。

日本人は、海外の歌手のように声が出せない、
長年その神話が信じられてきた。
骨格や声帯、言語が違うから、というのがその理由だった。
しかし、近年では、クラシックを始め様々な分野で世界に通用する歌手が出始めた。
頻繁に良い発声の歌手を聴いていると、その憧れの声を真似するうちに
似たようなことができるようになるものだ。
願えば叶う。
イメージの力もある。

声にはお国柄がある。
中国の女性アナウンサーは甲高いが、CNNの女性キャスターは低音。
つまり国によって、どの高さ、または質が魅力的であるかの尺度は異なる。
日本人は声が小さく、女性なら細く高く作った声が魅力とされ、
さらにでかい口を開けるのは下品とされていた。
家が狭いので、みんな近づいて過ごすため、ぼそぼそ喋っても聞こえる。
石造りのでかい西欧の家では、互いの距離が遠く、
大きい声で喋らなくてはならない上、石の壁は残響があるので良く響く。
そんな文化的な価値観の差が声には大きく影響する。

日本人、特に女性の中には、大きな声を出したことすらない、
という人が大勢いる。
かつて大声は、はしたないものだった。
だが、声を出すのは楽しい。
1時間歌えば、頭はすっかり興奮する。
夜間にコーラスの練習をするグループは、眠れなくなる、とぼやいている。
気分が高揚する。
スポーツと同じようにすっきり爽快になる。

いい声になりたいね。
どうすればなれるかというと、
私のボイストレーニング法を習えばいいのです。

父の時計

user-pic
0

父の形見の腕時計は、不思議な時計だ。
オメガの古い型で、日付が付いている。
文字盤が大きいので、出かけるときに時々する。
その時計の不思議な点は、時に大きく遅れることだ。
数分だけ遅れる日がある。
それは、どの時計にもありがちだから、修正しないで放っておくこともある。
ところが、日によって30分も遅れる。
毎日、仕事机の上に置いて気がつけばネジを巻いているはずなのに。
前日も、しっかりネジを巻いたはずなのに、数10分遅れるなんて?

その日は、必要以上に忙しくして、我を忘れそうになっていた。
テンションが下がらなくて、それでも欲張って、一日中イライラくるくる回しすぎ。
父がどこかで「もっとゆっくり、丁寧にしろや」と呆れている気がする。
お金のために、意に添わない本を書いたとき、一読してこう言った。
「たまには休みに帰ってこい」
休まない私が帰らない間に、父は死んだ。

形見の時計は、私を叱る。
「欲張るな、ほどほどでいい」
しんどい毎日の中で、立ち止まり、私は時々ゆっくり泣くことにしている。

だって、時計が遅れるから。

訃報を聞いたとき、「ああ...」と声が漏れた。
新聞の三面に事実だけを伝える字がひっそりあった。
センセーショナルでなく、興味本位でもない。
それは、ジャックさんの人柄そのままの、素直な記述。
ジャックさんがこの世からいなくなってしまった。
その事実は未だに、私に馴染まない。
なぜなら、私はいつも、ジャックさんと再会しなくてはと感じていたからだ。


ふとした時に、いつかジャックさんに会いに行くのだと思った。
いつか、再会して握手して、一緒にブルースなど歌うだろうと思った。
それはたいてい、私の心が空しさや淋しさに浸食されそうなときで、でも
ジャックさんを思い出すと、少し自信を取り戻したり、元気だった若い頃を取り戻したりできるのだった。

「大リーグクラスだよ、もっと歌えばいいのに」
若い頃、ジャックさんはよくそう言って私を励ましてくれた。
彼と出会ったのは、吉祥寺のサムタイムというライブハウスで、まだ大学生だった私は、開店の時からレギュラーで歌わせてもらっていたのだ。
三鷹のアメリカンスクールで教えていたジャック・モイヤーさんは、海洋生物学者でブルース・シンガー。
サムタイムは、そんな彼のお気に入りの店になった。
店では若いミュージシャンたちが、毎日頑張っていた。
そして、なまった日本語を話すお客のジャックさんは、ピアノと歌でしばしば飛び入りしながら、みんなと仲良しになっていった。

ある夏、私と弟の光朝、斉藤くじらさんと、清水秀子さん、そして佐山雅弘さんとで三宅島の彼の家に数日間泊まった。
毎日、海とジャックさんの研究テーマであるクマノミの話とビールとジャズで盛り上がった。
記憶は曖昧だが、次の年も行ったと思う。
三宅では、ジャックさんを慕ってアメリカからやって来る海洋生物学の学生たちやアメリカンスクールの学生たちとも過ごした。
ゴードンというマッチョな男子は、台風の中でサーフィンをした。彼は、ほとんど寝ないで海に潜り、女の子をナンパし、ビールを沢山飲んだ。
夜更かしと飲み過ぎでごろごろしている私たちに素晴らしい発声で「Good Mornig」と手を挙げながら、朝6時、ダンダンと音を立てて廊下を歩く。
私たち軟弱なミュージシャンは、その底なしのタフネスに驚いてあんぐりと口を開いたものだ。

当時、ジャックさんはまだ独身だった。
とても淋しがり屋なので、ひとりの夜はビールがないとたまらない。
ビールとブルース。
そして結構惚れっぽく、二十歳以上年下の私にもデートを申し込んだりした。

私は、間もなく結婚して歌をやめた。
ジャックさんと会う機会もなくなった。
だから三宅が最初に噴火したとき、慌てて電話した。
でも、なぜか彼は困ったような声で話した。
後でそれは、結婚したからだと分かった。
奥さんに遠慮したらしい。
ある日、池袋で彼が夫婦仲良く腕を組んで歩いているのを見かけた。
幸せそうだった。
ジャックさんはキャメルのコートでダンディにきめていた。

その後一度、会った。
久しぶりに歌ったら、やっぱり
「まだまだ、大リーグだよ」と言ってくれた。
それからは、テレビのドキュメンタリーや新聞記事などで彼の活躍を遠く見ていた。
色々な活動を、エネルギッシュにやっているのが伝わってきた。
結婚して子どももでき、素晴らしく張り切っていた。
そして三宅島が大きな噴火。

ジャックさんについて、私は楽観していた。
彼なら、きっとみんなの力になりながらなんとかするだろう。
しかし、いつまで経っても、三宅はガスに覆われている。

自殺を報じる新聞記事を見て、弟が電話してきた。
三宅島に一緒に行った弟は精神科医になっている。
彼には、ジャックさんの様子が手に取るように分かるらしかった。
子供と一緒に、クマノミを主人公にしたアニメ、『ファインディング・ニモ』を観て号泣したと言う。
私は、泣かなかった。
けれど、今も時々
「ジャックさんと再会したら、この曲が歌いたいな」
と考えていることに気づく。

もう、この世にいないのに、何か素敵なことを伝えて喜んで欲しいとか、
私が何かを上手くできたことを誉めてもらいたいと願っている相手が、いつも心の中に何人かいる。
数年前に死んだ父もそうだ。
「会いたくても、もう、いないんだなぁ」
そう思いながら、自分の年齢を数える。
そんな時、改めて、もう、ずいぶん長く生きていると知る。

このアーカイブについて

このページには、2004年5月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

次のアーカイブは2004年10月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。