2005年4月アーカイブ

 生きている限り、ことあるごとにあらゆる選択をしなくてはならない。
 生活の仕方、住まいのしつらえ、食べ物、飲み物、衣服はもちろん、様々な趣味も。
 生理というのは恐ろしいほどに各人各様で、好みの多様さと言ったら目が眩みそうだ。
 私は、音楽や読み物が好きなのでそれらについては広い許容量をもっていると思っているが、それでも、いざとなると聴く音楽はとても少ない。
 読み通せる本もそう沢山はない。
 同じCDを続けて聴いたり、同じ作家を続けて読んだり、それが一通り過ぎると、何も聴きたくない、読みたくない時期が続いたり...。

 自分が歌を歌い、ライブをするので聴く人の好みは気になる。
 評価を頂けるとすれば、聴く人が私とその日のユニットの演奏を気に入るかどうかにかかっているからである。
 評価はいつもまちまちで、ある人がとても気に入ってくれた演奏は、ある人にとってはつまらないものである場合もある。
 誠心誠意務めても、そんなものだ。

 私の子どもたちは、皆音楽好きだが、ひとりひとり聴く音楽は全く異なる。
 長女は中・高校生時代から一貫してインディーズのヴイジュアル系しか聴かない。未だに追っかけもやっており、変な格好をして出歩くのでぎょっとする。
 次女は、洋楽のR&Bが好きで、しかも一曲をリピートして聴く。こちらも、私にはやや軽すぎてフィットしない。
 長男は、ロック一辺倒。私はどちらかというとロックは聴かない。しかし、彼の選ぶバンドはいつもとてもいい。レディオ・ヘッドとレッド・ホット・チリペッパーズが好きで、最近はストロークスというのを見せてくれた。これも良かった。つまり、ジャンルを超えて趣味が合う。

 ライブをすると、ミュージック・チャージ分楽しんでもらわなくちゃ、と責任を感じる。
 しかし、ただ元気に明るく叫んでいればいいというものでもなく、音楽性ばかり追求すればいいというものでもない。
 元気に叫んでいれば盛り上がるので満足感はあるが、いつも同じ内容になりがち。
 様々な色合いの曲で構成すれば、飽きは来ないかも知れないが、私自身の個性やオリジナリティーは薄まる気もする。
 その辺のさじ加減は、長く活動していて自然に感じ取り、程良さを身につけていけるものかも知れない。
 ジャズ、フュージョン、ゴスペル、J-popまで色々なタイプの曲を歌っていると、「私って何?」と変な気分に襲われることがある。自分にないものに憧れて真似に堕してしまっているのか、消化してこなすだけのパワーがないのか...。
 ピアニストは、「歌手は自分の声があるから、それだけで個性が出る」と羨ましがってくれたりするが、私自身は、「これが自分の歌だ」と胸を張れるものをまだ手に入れていない気がする。

 毎日、終わったライブの内容やこれから予定されているライブの方向性についてあれこれ考えている。
 ライブは、想い描いている自分の趣味や理想を現実の音にしてみることだ。
 だから終わるたび、自分が手にした感覚を反芻し、次の機会にその先のことをしたいと高望みする。
 そうしなくてはならない、なんてことは全くないのだが、いつの間にかしている。
 成果は、音楽そのものよりも、体力とか視点の変化みたいなものに助けられることが多いのだけれど。

 享年56歳、高田渡さんが逝ってしまった。

 そんなに若かったのだ。
 中学生か高校生の時代からずっと、その存在を特別なものと感じ続けた人だった。
 高校時代はとくに、詩の世界に惹かれた。
 それはすみずみまで、渡さん独特の世界観に満ちていた。

 合唱団で思い切り歌って、文芸部で小説や詩を書いて、軽音楽部の友だちとバンドやジャズをやる、というのが私の高校時代だった。
 その中で、まだ幼く世間を知らない私に、「無欲の凄さ」を垣間見せてくれたのが渡さんだった。

 大学が吉祥寺にあったので、憧れの「ぐわらん堂」の前を通って通学した。その頃からはジャズに没頭し、ぐわらん堂への足は遠のいた。
 中央線とか吉祥寺とかライブハウスというものは、北海道に住む私たちにとってはるか彼方にある夢の世界のことだった。
 「オズの魔法使い」の物語ように。
 現実にその世界で暮らすようになると、憧れは手元近くに在ってはならないと知るようになる。私は、すでにフォークを聴かなくなっていた。

 大学の卒業式の日に、友だちの家に泊まることになった。
 その前に、その仲良しのメンバーでお酒を飲みに行った。
 南口にあるライブハウスの「のろ」で、飲めないのに調子に乗っていつもよりたくさん飲み、あっという間に気分が悪くなった。
 挙げ句、あろう事か洗面所で吐いてしまった。
 意識朦朧、脂汗をかいた後、正気を取り戻すと誰かが洗面所を掃除している。
 それが、高田渡さんだった。
 「いいんです、いいんです、こんなことは、私も始終ですから」
 そんなことを言いながら、酔眼で洗面所を洗っている。
 これが、長い年月憧れていた吟遊詩人との初めての出会い。

 数日して、同じ吉祥寺のサムタイムに出演していたら、歌う私の後の席から
 「吐くなよーー」
 と呟く声が聞こえた。
 振り向くと渡さんがいた。
 かなり酔っていたが、しばらく演奏を聴いて
「内海さんは大人しそうに見えるけれど、歌うと激しいね」
 と言うのだった。
 渡さんのバンドには、大学のジャズ研の下路先輩がギターで参加していた。
 「今度私、ぐわらん堂に出ますから、その時ゲストで歌いにいらっしゃい」
 何だか知らないけれど、いつの間にか時々一緒に飲むようになった。

 屋台のような店が好きだった。
 話は色々したけれど、真面目な話には取りあわない。
 港で船舶の汽笛を聴いて開眼した、ような話をよく覚えている。
 話はとかく、堂々巡りで、感じたことしか言わないのだ。
 そして、なかなか喧嘩好き。
 ジャック・モイヤーさんや佐山雅弘さんと落ち合う約束をしていた時には、ついでだと思って紹介したら、あのぎょろりとした目でいきなりにらみつけて、
 「この人たちは何だ」
 と、遠慮もなく突っかかられた。

 ぐわらん堂のライブでは身がすくんだ。
 自分が渡さんのファンだったのだから、お客さんの気質は良く知っている。
 その前で歌うなんて、とんでもなかった。
 私は、「ジョージア・オン・マイ・マインド」を歌い、
 予想通りお客は引いた。
 渡さんは
 「この人は、普通のお嬢さんなんだけど、歌うとなると激しいんです」
 と言って、
 「今度、私の『猫の寝言』という曲を歌うと良いと思っています」
 と言うのだ。
 じつはそんな歌はなく、これから作ろうとしていたらしい。
 「猫がね、夢見ているらしく、寝ながら何か言っていたわけです。それでね、思いついた歌でね、さわりはできているんです」
 と言いながら、ひとふし唸った。
 「こういう歌を、洒落たジャズクラブなんかで歌うとどういうことになるか」
 みたいな事も言った気がする。

 渡さんの隣に並んで歌う姿を見ていた。
 ひとつの存在の固まりがいて、誰がどうしようとしても、絶対に変わりようがないくらい岩石みたいに安定していた。
 その人間の有り様を、私は感じて納得した。
 岩石みたいに居ながら、この世の中を生きていくのは、生半可じゃない。
 だからこそ、そういう人が表現するものはすごい。
 でもしかし、そうだからこそ、ひとりで生きていくのは不可能かも知れない。

 いつか、自分が岩石みたいに安定したと思えたら、渡さんの『生活の柄』を私風に歌ってみたいと思っている。

 朝、テレビの芸能コーナーで、中年の「二枚目」俳優が新しいドラマの制作発表をする模様が流れていた。
 そのドラマでは、カッコ良いことで名の知れた2人の俳優が刑事の役をやるらしい。彼らは役の服装と見られる黒づくめのスーツに濃いサングラスをかけ、足を組んでデイレクターズ・チェアに深々と座っている。
 それはどこをとっても隙のない、いつの時代かの定型のカッコ良さであった。
 彼らはレポーターの慇懃な質問に、きっちりスターらしく振る舞って答えていたのだが、今朝は、その様子が突然のように大きく時代から遅れた印象になってしまっていた。彼らもそれを感じ取っていたのだろう。受け答えのそこここに、居心地の悪さというか、テレらしきものが混じり込んでいる。
 振る舞い方に窮したらしく、ひとりが立ち上がって今絶好調のお笑い芸人の真似をした。するともう一方も、別のお笑いネタの蘊蓄を傾けてみせた。
 カッコ良い人がふざけるというのは、かつてはメディアに対する最高のサービスだった。それは、スターであるにもかかわらず気取っていませんという謙虚さの表明であり、同時に自分のイメージを多少汚しても、ファンや取材するレポーターに喜んでもらおうとするサービス精神を持っているという証明であり、別の意味では、少々おふざけをしても損なわれないほどの真のスター性を保持している、という確実な自信の表れでもあった。

 ところが、朝食を食べながら、その映像を見ていた私が今朝のスターたちに感じ取ったものは「全てを読み違えてしまうほどの怠慢と緩さ」でしかなかった。
 その読み違え方は、あまりに根が深いので、彼らの存在を哀れに見せるほどだった。
 彼らがサービスと信じて真似をしたセリフや瞬間芸は、じつは激烈な競争を勝ち抜いたピン芸人たちが、気を抜いた途端に明日などないという、刃の上を歩くような切実な日常から発する時だけ輝くものであって、ある程度安定した身分を手に入れた、しかも、自分を二枚目と定義づけることに何の躊躇もない俳優が口にしてはいけないものだったのだ。
 それを、安易な受け狙いで口にした途端、お笑い芸人より遥か上の身分にいるはずの二枚目俳優たちは真似した芸に逆襲され、彼らの現在の構え方、つまり仕事に対する態度の緩さや慢心、自分の見せ方についての真剣さの欠如を恐いほどに暴露されてしまったのであった。

 私は隣で学校に行く準備をしている息子に言うともなく、ぼそっと呟いた。
 「カッコ良い俳優って、なんてカッコ悪いんだろうね」
 息子は深く頷いて、
 「うん」
 と言った。

手練手管

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 布団に入ってうとうとしたら、隣の部屋でまだ起きている次女が電話をかけ始めた。
「彼氏」と話しているらしい。この娘はいつも誰か彼かとお付き合いしている。本人が「私はモテる」と言うのだから、きっと本当なのだろうと思う。これまでも、いくつかのアルバイトを、しつこく言い寄るストーカーまがいの男の出現のために辞めたりしている。
 もっとも、本人は自分のことを太っていると思っており、なぜ自分がモテるのか良く分からないとも言う。天然の自分の美しさには自信がないらしく、いつもしっかりお化粧をして、着るものにもうるさい。まあ、魅力的に見えるとすれば本人の努力の結果もあるだろう。

 電話の内容は、喧嘩とまでは言わないが、ある問題についての意見交換であるらしかった。娘がしようとしていることを、彼氏が気に入らず、それを絶対にしないことを約束せよ、と迫っているらしい。
 娘は頑迷に抵抗する。「別に、今それをしないとどうにかなると言うことではないが、したくなったときに約束を破るかも知れない可能性はある。自分でも、いつ気が変わるか知れないので、そんな破る可能性のある約束をするわけには行かない」というのである。話は相手の説得に娘が応じない、ということの繰り返しで長々続いている。

 寝鼻を挫かれて参ったな、と感じながら、しかし私は娘の抵抗をなかなか頼もしいと思っていた。
 私自身は、彼氏ができるとすぐ迎合していた。大変素晴らしい父親に恵まれたお陰ですっかりファザコンになり、男性とは素晴らしい、尊敬すべき存在であると固く信じて育ったからである。ステディとなれば、彼の気に入る女性になろう、彼をバックアップしようと根拠のない尽くし方ばかりしてきた気がする。多分、それで人生を誤った。
 そんな私を、娘は時に歯がゆく思っている。
 とすれば、私は反面教師として、彼女をある意味男女平等の権化みたいな娘に育てることができたのかも知れない。
 彼女は、彼氏に何と言われようが信念を曲げない。
 私は思った。口先約束して、現実にはそれを破ったとしても、彼氏がそれを知ることはないかも知れないではないか。私なら素直にその約束を受け入れ、懸命にそれを守っているところを見せ、相手の愛情に保険をかけたつもりになるかも知れない。
 しかし、娘はそれをせずに、自分の在り方を頑迷に曲げない。
 私は変に感心してしまった。
 女がそういう風に主張をしても、今時は「女らしくない」などと言われる風潮はないのだ。

 さんざん、言い合いをして、何かの拍子に娘が言い放った。
 「それなら、今電話から5m離れて、○○が好きだと叫べ」
 ○○は、娘の名前である。
 彼氏は素直に叫んだらしい。それに対し彼女は、
 「5m離れてないじゃん。ふん、みんなにバカだと思われるよ」
 だと。

 爽快である。
 私は、自分にはそんなものすごいこと、一生言えないなぁ、と思い、そんな自分のふがいなさを心から残念に思うのである。

 長女は会社に持参するため、日経新聞を購読している。
 ウィークデーは早朝に出勤してしまうので、私が読む間もないのだが、ある土曜日、朝刊を入れてふと見ると連載小説のところに変なイラストが描かれてあった。
 「変」というのはつまり、卑猥そうなという意味であるが、もわっとした雰囲気のベッドシーンの挿し絵が気になったので、つい読んでしまった。
 するとそれはとんでもないエロ小説であった。
 あれま、と思って作者を見ると渡辺淳一先生ではないか。
 どうやら『失楽園』の二番煎じであるらしい。
 『失楽園』について、一般の女子どもは知らなかったが、当時のサラリーマンたちは狂喜乱舞であったと聞いている。
 部数が飛躍的に伸びたとか。
 「あれは革命的だった」と感激する人を見たことがある。

 今回は、『愛の流刑地』だったかな?
 題名も凄い。
 何しろ流刑地である。
 不倫という行為でしか反社会的になりようのない貧しさ。
 当然、内容は幼児のようなのである。
 かなりの程度幼稚な男が、ただ若い人妻というだけで他にあまり個性の無さそうな、つまり今の時代の女から見て、「なにこいつ」と思う以外ないようなつまんない女性にとことん夢中なんである。
 どこがつまらないかというと、彼女不気味なくらいボキャブラリーがない。
 頑張る男がセックスについての感想を訊いても、ただ「はい」とか答えるのである。
 これは、頭が悪いか、カマトトか、何か企んでいるか、勘違いしているかのどれかてある。
 もっぱら主人公である「菊治」の視点で書かれているから、菊治にとってはそれが奥ゆかしいとか、謎めいているとか感じられて、魅力倍増となるらしいのだが、今どき普通ならこんな女いる訳がない。

 2ヶ月前に娘に「凄い連載小説載ってるねぇ」と言ったらば、
 「会社の女性社員みんなで、菊治は調子に乗りすぎだと呆れている」
 と言っていた。
 先日、「連載小説の評判どう」と訊いたら、
 「決算期で忙しかったから、誰もそんな話はしてない」そうだった。
 菊治はひとり、決算期も年度替わりもない流刑地のような荒涼とした世界で、幻想の愛に燃えているのだろうか。
 シュールにもならん、残念。

先走り傾向

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 軽快に走っていたかと思うと、激しく落ち込む。
 躁鬱とまでは言わないが、けっこう長期にわたってブーたれている。
 決して外部の状況が変わったわけでなく、もっぱら自分のコンディションのみで、気分が上がったり下がったりする。

 鬱になる原因の一つは元来の性格。
 これ、遺伝している。
 思い返せば両親ともによく愚痴っていた。
 人間は本当の逆境になると強がる。
 弱みを見せたら踏みつぶされるような気がするからである。
 両親は順風満帆だったからこそ愚痴る余裕もあったとは思う。
 しかし、顔を会わせればまず愚痴に罵り合い、という習慣は私の発想を後天的にネガティブにしたかも知れない。
 「転ばぬ先の杖」症候群とでも言おうか、懸命に努力してよい状態を保っていないと、いずれ「大変なこと」が起こるに違いないと思い込んでしまった。
 この習慣から導き出される症状は「強迫神経症」。
 若い頃は症状がかなりひどくあった。

 この前提があったため、いつもしっかり準備して先に安心の保険をかける、という行為をするようになったらしい。
 
 本を書いたり作ったりするときには、これが大いに役立つ。
 あらかじめ書く内容の章立てをして、それに見合った資料や考えを確認すれば、後はひたすら書くだけ。何ヶ月先まででも、制作スケジュールを緻密に作れば安心だ。
 行事の采配などもこれに近い。
 やるべきことを書き出して時系列で並べておき、終わったらチェックしてゆくだけで輝かしい当日を迎えられるものだ。
 「やるべきこと」をイメージ豊かに描き出すこと。
 言い換えれば、「段取り」というやつ。
 これが好きだし得意だ。
 

 しかし、このところ段取りするのが早すぎて先走る。
 あるいは、「こうなるはず」という観測がポジティブすぎるようなのだ。
 これはひとえに怠惰のため。
 細かいリスクマネジメントが面倒になっている。
 だから、たいていの結果が自分の予測よりぬるかったり、しょぼかったりして、あれれれなんてこった、と感じてしまう。
 実りの少なさにがっかりして落ち込む。

 だがこれ、どう考えても私の勝手なんだわね。
 妄想が具現化しないのに苛立つ図々しい中年女性。
 これじゃみっともないだろうと思い直して、元気に頑張ろうと思うのだけれど、何だか底知れず空しい。
 何やったってどうせ大したことないし...。

 「人生に疲れたんだべか?」
 と、北海道弁で自分に尋ねてみたりして。

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