キャラが濃いとか、薄いとかいう話題に出会う。
キャラとはキャラクターの略らしいが、人格、性格、個性などの意味で使われているようだ。
キャラが濃いというのは、個性的、目立つ、印象に残る、特徴があるなどのことで、逆に薄いというのは、平凡、地味、印象が薄い、特徴がないなどのことらしい。
私は、子どもの頃からキャラが濃かった。
だが、子育て中に一気にその特徴を隠蔽した。
つまり、本来濃いキャラだったのに、ここ二十年ばかりは、キャラの薄い人として生きてきたわけだ。
私が住む地域で、私が歌手だとか本を書いているということを知っていた人はほとんどいなかった。
美容院にも行かなかったし、ふだんは化粧もしなかった。着ているものはトレーナーやジーンズで、それもスーパーマーケットで買っていた。
そういう私を見ていた人々は、私が歌う場面を見て本当にびっくりするらしい。
「別人かと思いました」
じつは、今考えるとこれらは私なりの保身だった。
幼児にとって、母親が目立つとろくなことがないと数年で分かってしまったから。
その日々の実態は、図書館から借りた結構難解な書籍を読み、臨床心理学や音楽史の勉強をし、特技みたいなことを生かして、フリーのライターやら音楽の先生やらをしていたが、それはごく親しくなった人しか知らないことで、今もご近所ではそれほど実体を知られていない気がする。
その立場のままエッセイをアップしていたわけだが、これがだんだん辛くなってきた。本質的には、私はもっとシニカルだったり、批評的だったり、鳥瞰俯瞰の好きなタイプである。
けれども、書きながら読者となってくださっている方々の顔を思い浮かべると、ついついサービス精神が働き、ネガティブなことも、脚色して食べやすく書いてしまう。
それは、実は本来の自分自身ではないのではないか。
筆が止まりがちなのは、カタルシスがないからではないか。
モチベーションは、いつも問題意識から発する。
問題意識の最初には、居心地の悪さとか、違和感とかがある。
その居心地の悪さの根元に目を凝らす行為が創造意欲に繋がる。
若き日の夢というのは、ユートピアを求める心に似ている。
私もそれを音楽の世界に求め、出版の世界に求め、学問の世界にも求めてみた。
そして、そのどれもが夢よりは「生業」というものと切り離しがたいことに目を覚まされた。
モチベーションとは、それを生業として続けるために持続されるものなのだ。
それによって生きてゆくためになし続けられる行為。
そこには、夢よりも多く、妥協や矛盾や幻滅や仕方なさや惰性やらが堆積する。
そうではあっても、音楽や散文や理論の本質に感動すべきものがあると体験しているから、それらを何とかやり繰りしながら続けたいと願う。
その態度には、いつも自分を鳥瞰して、業界全体の中での取るに足りなさとか、わずかに残る個別性とかを自覚しようとする行為が伴う。それは、一般の世間ではクールとかシニカルな態度として理解されがちだ。
もちろん、自分は自分であり、時によっては代わりのいない立場である場合もある。
しかし、職業人であろうとすると、その自分を正確に値踏みしていないとたちまち窮する。
私にとっては、かなり厳しいことだ。
けれど、その厳しさと、面と向かおうという気になってきた。
子どもを育てていた間には、安全を願って擬態を通したけれど、彼らももういい加減手を離れたし、何より、私の中で収まらないものが出口を求めているようなのだ。
という、大層な宣言をしても、明日からバリバリ動き出すという程でもないとは思うけれど、まぁ、そういう自覚が始まってはいる。
もう少し大人らしく振る舞おうと、そうしなくてはいけないと感じているのだ。