訃報を聞いたとき、「ああ...」と声が漏れた。
新聞の三面に事実だけを伝える字がひっそりあった。
センセーショナルでなく、興味本位でもない。
それは、ジャックさんの人柄そのままの、素直な記述。
ジャックさんがこの世からいなくなってしまった。
その事実は未だに、私に馴染まない。
なぜなら、私はいつも、ジャックさんと再会しなくてはと感じていたからだ。
ふとした時に、いつかジャックさんに会いに行くのだと思った。
いつか、再会して握手して、一緒にブルースなど歌うだろうと思った。
それはたいてい、私の心が空しさや淋しさに浸食されそうなときで、でも
ジャックさんを思い出すと、少し自信を取り戻したり、元気だった若い頃を取り戻したりできるのだった。 「大リーグクラスだよ、もっと歌えばいいのに」
若い頃、ジャックさんはよくそう言って私を励ましてくれた。
彼と出会ったのは、吉祥寺のサムタイムというライブハウスで、まだ大学生だった私は、開店の時からレギュラーで歌わせてもらっていたのだ。
三鷹のアメリカンスクールで教えていたジャック・モイヤーさんは、海洋生物学者でブルース・シンガー。
サムタイムは、そんな彼のお気に入りの店になった。
店では若いミュージシャンたちが、毎日頑張っていた。
そして、なまった日本語を話すお客のジャックさんは、ピアノと歌でしばしば飛び入りしながら、みんなと仲良しになっていった。 ある夏、私と弟の光朝、斉藤くじらさんと、清水秀子さん、そして佐山雅弘さんとで三宅島の彼の家に数日間泊まった。
毎日、海とジャックさんの研究テーマであるクマノミの話とビールとジャズで盛り上がった。
記憶は曖昧だが、次の年も行ったと思う。
三宅では、ジャックさんを慕ってアメリカからやって来る海洋生物学の学生たちやアメリカンスクールの学生たちとも過ごした。
ゴードンというマッチョな男子は、台風の中でサーフィンをした。彼は、ほとんど寝ないで海に潜り、女の子をナンパし、ビールを沢山飲んだ。
夜更かしと飲み過ぎでごろごろしている私たちに素晴らしい発声で「Good Mornig」と手を挙げながら、朝6時、ダンダンと音を立てて廊下を歩く。
私たち軟弱なミュージシャンは、その底なしのタフネスに驚いてあんぐりと口を開いたものだ。 当時、ジャックさんはまだ独身だった。
とても淋しがり屋なので、ひとりの夜はビールがないとたまらない。
ビールとブルース。
そして結構惚れっぽく、二十歳以上年下の私にもデートを申し込んだりした。 私は、間もなく結婚して歌をやめた。
ジャックさんと会う機会もなくなった。
だから三宅が最初に噴火したとき、慌てて電話した。
でも、なぜか彼は困ったような声で話した。
後でそれは、結婚したからだと分かった。
奥さんに遠慮したらしい。
ある日、池袋で彼が夫婦仲良く腕を組んで歩いているのを見かけた。
幸せそうだった。
ジャックさんはキャメルのコートでダンディにきめていた。 その後一度、会った。
久しぶりに歌ったら、やっぱり
「まだまだ、大リーグだよ」と言ってくれた。
それからは、テレビのドキュメンタリーや新聞記事などで彼の活躍を遠く見ていた。
色々な活動を、エネルギッシュにやっているのが伝わってきた。
結婚して子どももでき、素晴らしく張り切っていた。
そして三宅島が大きな噴火。
ジャックさんについて、私は楽観していた。
彼なら、きっとみんなの力になりながらなんとかするだろう。
しかし、いつまで経っても、三宅はガスに覆われている。 自殺を報じる新聞記事を見て、弟が電話してきた。
三宅島に一緒に行った弟は精神科医になっている。
彼には、ジャックさんの様子が手に取るように分かるらしかった。
子供と一緒に、クマノミを主人公にしたアニメ、『ファインディング・ニモ』を観て号泣したと言う。
私は、泣かなかった。
けれど、今も時々
「ジャックさんと再会したら、この曲が歌いたいな」
と考えていることに気づく。 もう、この世にいないのに、何か素敵なことを伝えて喜んで欲しいとか、
私が何かを上手くできたことを誉めてもらいたいと願っている相手が、いつも心の中に何人かいる。
数年前に死んだ父もそうだ。
「会いたくても、もう、いないんだなぁ」
そう思いながら、自分の年齢を数える。
そんな時、改めて、もう、ずいぶん長く生きていると知る。
新聞の三面に事実だけを伝える字がひっそりあった。
センセーショナルでなく、興味本位でもない。
それは、ジャックさんの人柄そのままの、素直な記述。
ジャックさんがこの世からいなくなってしまった。
その事実は未だに、私に馴染まない。
なぜなら、私はいつも、ジャックさんと再会しなくてはと感じていたからだ。
ふとした時に、いつかジャックさんに会いに行くのだと思った。
いつか、再会して握手して、一緒にブルースなど歌うだろうと思った。
それはたいてい、私の心が空しさや淋しさに浸食されそうなときで、でも
ジャックさんを思い出すと、少し自信を取り戻したり、元気だった若い頃を取り戻したりできるのだった。 「大リーグクラスだよ、もっと歌えばいいのに」
若い頃、ジャックさんはよくそう言って私を励ましてくれた。
彼と出会ったのは、吉祥寺のサムタイムというライブハウスで、まだ大学生だった私は、開店の時からレギュラーで歌わせてもらっていたのだ。
三鷹のアメリカンスクールで教えていたジャック・モイヤーさんは、海洋生物学者でブルース・シンガー。
サムタイムは、そんな彼のお気に入りの店になった。
店では若いミュージシャンたちが、毎日頑張っていた。
そして、なまった日本語を話すお客のジャックさんは、ピアノと歌でしばしば飛び入りしながら、みんなと仲良しになっていった。 ある夏、私と弟の光朝、斉藤くじらさんと、清水秀子さん、そして佐山雅弘さんとで三宅島の彼の家に数日間泊まった。
毎日、海とジャックさんの研究テーマであるクマノミの話とビールとジャズで盛り上がった。
記憶は曖昧だが、次の年も行ったと思う。
三宅では、ジャックさんを慕ってアメリカからやって来る海洋生物学の学生たちやアメリカンスクールの学生たちとも過ごした。
ゴードンというマッチョな男子は、台風の中でサーフィンをした。彼は、ほとんど寝ないで海に潜り、女の子をナンパし、ビールを沢山飲んだ。
夜更かしと飲み過ぎでごろごろしている私たちに素晴らしい発声で「Good Mornig」と手を挙げながら、朝6時、ダンダンと音を立てて廊下を歩く。
私たち軟弱なミュージシャンは、その底なしのタフネスに驚いてあんぐりと口を開いたものだ。 当時、ジャックさんはまだ独身だった。
とても淋しがり屋なので、ひとりの夜はビールがないとたまらない。
ビールとブルース。
そして結構惚れっぽく、二十歳以上年下の私にもデートを申し込んだりした。 私は、間もなく結婚して歌をやめた。
ジャックさんと会う機会もなくなった。
だから三宅が最初に噴火したとき、慌てて電話した。
でも、なぜか彼は困ったような声で話した。
後でそれは、結婚したからだと分かった。
奥さんに遠慮したらしい。
ある日、池袋で彼が夫婦仲良く腕を組んで歩いているのを見かけた。
幸せそうだった。
ジャックさんはキャメルのコートでダンディにきめていた。 その後一度、会った。
久しぶりに歌ったら、やっぱり
「まだまだ、大リーグだよ」と言ってくれた。
それからは、テレビのドキュメンタリーや新聞記事などで彼の活躍を遠く見ていた。
色々な活動を、エネルギッシュにやっているのが伝わってきた。
結婚して子どももでき、素晴らしく張り切っていた。
そして三宅島が大きな噴火。
ジャックさんについて、私は楽観していた。
彼なら、きっとみんなの力になりながらなんとかするだろう。
しかし、いつまで経っても、三宅はガスに覆われている。 自殺を報じる新聞記事を見て、弟が電話してきた。
三宅島に一緒に行った弟は精神科医になっている。
彼には、ジャックさんの様子が手に取るように分かるらしかった。
子供と一緒に、クマノミを主人公にしたアニメ、『ファインディング・ニモ』を観て号泣したと言う。
私は、泣かなかった。
けれど、今も時々
「ジャックさんと再会したら、この曲が歌いたいな」
と考えていることに気づく。 もう、この世にいないのに、何か素敵なことを伝えて喜んで欲しいとか、
私が何かを上手くできたことを誉めてもらいたいと願っている相手が、いつも心の中に何人かいる。
数年前に死んだ父もそうだ。
「会いたくても、もう、いないんだなぁ」
そう思いながら、自分の年齢を数える。
そんな時、改めて、もう、ずいぶん長く生きていると知る。
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