ライブ活動の醍醐味は、たくさんの人とコミットできること。
言ってみれば、演奏はある種、恋愛に似ている。
プレイヤーの出す音に惚れ、リズムに惚れる。
ある人は和音の美しさにこだわり、ある人はリズムにこだわる。
機能性や構成を完璧なものに近づけたい人、雰囲気や精神性を大切にしたい人。
分析する人、クリエイトのためのヒントを探したい人、感動したい人。
音楽は、演奏するときにも聴くときにも、生理とか心の個性を剥き出しにする。
ミュージシャンと共演するとなれば、彼、彼女たちが、音楽という活動をどう捉えているかという大きなテーマに突き当たる。
一緒に演奏する場合、技術の有無よりも、そこで何を求めて演奏しているのかという、心の目的がもっと大切な要素になる。
コミットメントとか共存とかインスパイアとか、あるいは交換、共感、相互理解、愛情、達成感などなど。
日常の精神状態ではなかなか入り込めない他人の精神世界に触れる機会が、演奏活動にはある。
人が恋愛するのは、多様に動く自分の心を相手の中に見出したいから。
愛しさ、優しさ、怒り、悲しみ...。
決して止まることのない己の心模様を、相手の反応とともに確かめる。
愛していればそれと同様の愛を、優しくすれば笑顔や満足を、怒りには尊厳や反抗を、悲しむときには共感を、いつも求めている。
自分の心が何を求めているのかを正確に知るのは困難だ。
けれど、人はいつも、どうにかしてそれを知りたい。
掴まえどころのない感情を、とりあえず外に出してみたらば、誰かがそれをすいと掌に載せて、「ほら、これよ」と言ってくれる。
そんな夢を、目の前にいる相手は、叶えてくれるだろうか?
叶えてくれるかも知れない相手を、どこまでも求め続ける。
叶えてあげられる相手を、探し続ける。
恋愛は、そういう行為だ。
演奏していると時々、それと似た感情が達成されたようなカタルシスを感じるときがある。
音やリズムのハーモニーは、擬似的に人の心の寄り添い方を聴かせる。
自分が消えて、全体がひとつの音になるときがある。
その美しさは、わたしの記憶の宝になっている。