これは、今は亡き父の口癖。
望みは大きく、なるべく壮大なイメージをもって抱け、というのである。
他人様から見ると、ばかげたホラ話のような望みを抱き、誇大妄想的にその実現に向けて努力した者だけが、並の成果を手に入れることができる、という考え方。
まさに「望み」を叶えるには、まず始めに欲求がなくてはならない。
そしてその欲求が具体的であればあるほど、叶う確率は高くなる。
自分の中で、最終的な夢が描かれ、それを実現するための当座の目標が定まり、それを実践している自分の姿がイメージでき、そこに至るまでの道筋が、方法論として描けたならば、この次に何をすればよいのかが自然に分かる...はず。
もっとも、若き日々の望みは壮大であっても、ほとんどの場合、そこに至る道筋はとんでもなく格好悪くて、辛くて、予想外の難事が次々起こり、周囲の顰蹙まで買うことも多々あるわけで、結局、壮年になる頃にはすっかり挫折して望み自体を持たなくなってしまうのが一般的かも。
いわゆる、「守りに入る」という体勢。
あるいは「諦める」。
「諦観」は、中年以降のある種の佇まいを言い表している。
わび・さびの世界ですなぁ。
じつは、私の若い日の望みは「おばあさんになること」だった。
あまりにもエネルギー過剰な自分に疲れ、何もせずとも充足しているような、縁側に座って猫とひなたぼっこしているような、静かなおばあさんになることを夢見たのだ。
そして今はどうなったかというと、残念ながら、若い頃とあまり変わっていない。
相変わらず、あれもしたいこれもしたい、これが物足りない、もっとどうにかならないか、と欲張りである。
ただし、幾分の工夫は見られる。
若い頃は、不安や焦燥でざわざわしていたけれど、今は一応、落ち着いて考えることができるようになった。
考えて、自分の資源や財産を吟味し、戦略を立てることができるようになった。
などと書くと、すごいことをしていそうだが、まぁ、仕事が込んで晩ご飯を作れないときに、子どもを仕事場に寄らせて一緒に食べる、という程度のことである。
昔なら、夜遅くなってからでも必死に家に帰って、栄養バランスなどを気にしつつ焦りまくって手作りしたかも知れない。
それしか思い浮かばなかったわけだ。
しかし、今は、困ったことが起きても、楽に切り抜ける方法を考え出すことができる。
切り抜けすぎて、呆れられているかも知れないが...。
「棒ほど願う」というからには、かなり無茶苦茶をやってしまう可能性があるということだ。それが身に沁みるのは、最近、本当に無理矢理やってる、という感じの場面が多くなっているから。
ライブはとくにそうである。
歌うたいというものは、ライブでバンマスというのをしなくてはならない。
バンマス=バンド・マスター。
責任者、ということ。
この仕事は、場所を決定し、スタッフ、ミュージシャンを決定し、全般にわたって交渉し、お金の管理をするものである。
まず大変なのは場所取り。ライブハウスでもホールなどでも、とにかく競争。
それからミュージシャンとのスケジュール合わせ、リハーサル、そしてスタッフとの打ち合わせ、集客、最後に支払い。
これらの仕事の他に、自分のパフォーマンスのための選曲、練習、暗譜、衣装調達、プログラムやチケットづくりがある。
ときどき、これやってなんの得があるのか、と悩んでしまうほどである。
けれど、やっぱり好きなんですね。
お客さんが少しでも喜んでくれると、それで目一杯嬉しくなる。
とくに、地元などのライブで、ふだんライブハウスに行かない人々が聴いてくれるのはとても嬉しい。これが音楽を好きになるきっかけになってくれないものか、と願う。
私の場合、「棒」ほどのその規模は、自分の望む素晴らしいミュージシャンと良い組み合わせで演奏し、ありったけの知り合いにインフォメーションする程度のことだが、それでも、多くの人にお世話をかけてしまう。
音楽やるのは、そういう意味でとても贅沢な仕事なのだ。
全然儲からなくて、時には出血大サービスにしてしまいがちなんですが...。
でも、私にとっては、ギヤラを頂いて歌うというのは、「針」以上に望みが叶っているということなんです、ホント!
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