直木賞に『まほろ駅前多田便利軒』という作品が選ばれた。
これは、私の事務所のことではないか、と思うようなタイトルである。
多田は便利に使われておる。
この苗字は夫のもので、私は未だに音楽仲間からは「うちうみ」とか「うーさん」と呼ばれたりする。「ただ」という苗字は、始終聞き間違えられてめんどくさいことも多いが、「駅前、多田、便利」という三題噺となればいかにも身近であるため、読んでみなくてはなるまい。
ということで、買って読んでみた。
感想をひとことで言えば、
「若い!」
である。
ここ数年、芥川賞とか直木賞を読むたびに、
「こんなんでいいのか」
と感じていた。
何だか、ゆるいのである。
内田百間(もんがまえの中ほんとは月みたいな字ね、探せなかった)とか井伏鱒二とか深沢七郎とか色川武大とかを読んだときの、「おおー、絶対敵いません、全面降伏です」という絶賛は出てこない。
あの、背面壁です、の地点まで追い詰められたような絶対的な読後感は、近年の作品にはない。
どちらかといえば、「何かと較べりゃ、こちらがまし」という、相対評価的なものばかり。
文学の程度は、こんな風に年々落ちて行くのだろうか、とも思ったりした。
しかし、今回の作品を読んで、はたと気づいたことがある。
それは、私自身が年を取った、ということだ。
はじめ、作中人物の描写を読みながら思い描いた登場人物の姿は、私と同世代の男が若かった頃の感じであった。
しかし、章扉に描かれたマンガによれば、彼らはTOKIOの長瀬君やオダギリ・ジヨーとかのような、背が高くクールな今時のイケメン風の姿として描かれてあるのだ。
そうか、時代背景が違うのだ。
娘、息子たちによって、最新の流行やら時代の傾向やらを知ることはできる。だが、彼らの心象風景、原風景までは想像できない。
とくに、孤独感、追い詰められ感、絶望感、焦燥感、劣等感、挫折感などのネガティブ系が無理である。
よく、幸せの形はひとつしかないが、不幸は人の数だけある、と言われるが、それと同じ。どの時代にも、幸せとは家庭の安泰とか、健康とか、豊かさとかで表現できるが、不幸は人のみならず、その時代ごと、環境ごとに千差万別である。
それで思い出したが、心の病も同様で、脳の機能の問題である統合失調症などは外国人医師でも手がけられるが、文化的要因の強い神経症は、外国人医師の手には負えないという説を聞いたことがある。
「疾病」か「懊悩・葛藤」かというのは、治療の一大分岐点ではある。
で、小説。
どんなに恵まれた時代に生きていても、いのちの一回性ということを考えれば、「懊悩・葛藤」はつきまとい、それに程度の高低を与えることなどできない。
しかし、歴史を顧みれば、安楽な時代と苛酷な時代は確かに存在する。
苛酷な時代を生きた人の、自己を見つめ直す作業として為される「文学」には、やはり凄みがつきまとう。
だが、人の成熟に関して、環境に頼るなんてことはできない。
下手をすると、「戦争がないと人間は呆ける」みたいな変な方向に話が行きかねない。目を凝らせば、動乱の世でなくとも、この世は充分酷薄、不条理に満ちている。
それをしっかと見て、考え抜くか抜かないか。
そこにこそ、文学性を左右する何かがあるような気がするのだが...。
そんならお前が書け、と言われちゃいそうで、後ずさる。
しんどい思いを追体験なんか、とてもじゃないがしたくない。
それを敢えてしようという作家の方々の生きざまは、もう「業・カルマ」を負っているとしか思えない。
尊敬するとか感心するとかの前に、「ご苦労様です」と深く頭を垂れたくなるのだ。
文学に世代間ギャップは存在する。
願わくば、若い作家の方たち、小説を書くという行為を韜晦しないで欲しい。
「どうせ私オタクですから」というポーズは良くない。
もっと、誇りを持って欲しい。
小説を書くのは大変なことなんです。
大したことをしていませんと、防衛するように唱えるよりも、これはすごい作業なんですと、声を大にしてもいいじゃないの。
そうしてくれれば、私も照れずに若者の小説を読めようになるかも知れない。
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