病気をしたことがなかった。
入院したのは、お産の時くらい。
子供を産んでからは、気が張っていたためか風邪を引いて寝込むということもなかった。インフルエンザにも罹ったことがなく、「風邪を引かない馬鹿」と思うのも癪で「はははは、私は不死身だ!」と空威張りしていたほど。
どちらかと言えばしんどい人生だから、疲労困憊した時には「熱でも出ないかなぁ、休みたいなぁ」などと罰当たりなことを考えたりもした。
ところが、一昨年、昨年と弟、義妹を亡くし、自分も片頭痛で寝込んでみると、人が健康に暮らしていられるのは恩寵とも言える、実に希で有り難いことなのだということが身に沁みた。
それから、自分のことを少し、労るようになった。
疲れすぎないように、疲れたら休むように、疲れざるを得ないときは何らかの解消法を探すように。
具合が悪い時は、心も薄暗くなる。
ネガティブな考えばかりが押し寄せ、どうやってもそこから浮き上がれないような辛い気持ちになる。
けれども、よく寝られて、美味しいものを食べられて、家族や友人と楽しく語り合えば、たいていのことは大丈夫じゃなかろうか、という気持ちになる。
ふと「すこやか」という言葉が浮かび、「健康」よりイイ感じだなと思った。
正常とされる検査値や平均値に当てはまらなくても、健やかに生きることはできる。
体力が充実していなくても、強靱でなくても「気分良く」暮らすことはできる。
私にとっては、誰かに対して辛く当たらなくて済む状態が「すこやか」だ。
体力や気力に余裕があると、相手との間尺が程良く取れる。
自分のイライラや疲れを誰かに対して、乱暴に投げ出さなくて済む。
周囲の人に少しは、配慮したり思いやりを持てる状態が「すこやか」だ。
そういうコンディションを持続する努力をしなくては、と思う。
「私は大変で疲れてるんだ」
と甘えかかる人にはなりたくない。
優しい人や親切な人に会うと、すごく嬉しいから、誰かにもそういうホッとした気持ちをプレゼントできるようになりたいと思う。
「たまには怒った方が良いよ」と私の無理を心配してくれる人もいるが、怒るとその後、いっぱい償いをしたくなってしまい、本末が転倒してしまうことが多い。
私は、我慢して怒らないわけではなく、怒るのが嫌いなのだ。
心の中では怒っているけれど、それをそのまま相手にぶつけるのは芸がない。
怒りたいときも、それを攻撃に変えないやり方を工夫する方が楽だし、気分がいい。
あるいは、全く別の方法でそれを解消する。
もしかするとそれは、人と人との関係性に於いては間違った方法なのかも知れない。
でも、私の場合、そうやってでも不安の少ない日常を維持する方が大切だ。
良くない考えかも知れないが、攻撃的な人を見ると、彼や彼女はきっと何かに守られている人なのだろう、と感じてしまう。
攻撃して顰蹙を買う、あるいは逆襲されて被るダメージは、ギリギリ感を持つ人にとっては致命的だ。
生活に困っていない、安定した基盤のある人は、平気で誰かを攻撃したり非難したりできるのかも知れない。けれど、その安定を約束する立場の人は、いつも周囲に万全の配慮をしていなくてはならない。そういう立場に寄り添うと、本当に必要な優しさとはどういうものなのか、理解できるようになる。
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