アートと私の心のこと

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 アート という言葉を聞くと私の心の中に浮かぶのは「緑色」と「水」である。
 私の解釈では、緑色は、ネイチャーで、そして水は生命。
 条件をつけないで「アート」と言ってみる。
 心に浮かぶのは何だろうか。
 ゴテゴテしたものを思い浮かべる人もいるし、高価なものを思い浮かべる人もいるかもしれない。
 多分、アートとは、その人の中にある価値である。しかも、もっとも大切な。
あるいは、人が、彼や彼女の生きるときに必要な計算を度外視しても、どうしても好きなもの、のことではないだろうか。
 私の心の中では、いつも自問自答があった。
「これは、本当に価値あるものなのか?」
「私は、これを好きでいても良いのだろうか?」
 私の心は、好き嫌いについて、つい最近まで誰かからの許可を求めていたようだ。その「誰か」というのが何者かは、いまだによく見えないが。
 人は、気づかないまま、許可や基準を求めがち。
 そこから自由になるためのものがアートなのにも拘わらず。
 そして、最近、もっとも工夫しているのは、アートをする時の自分の置き方である。
 自分は、流動する。
 昨日と今日は違うし、色々考えは変わり、思いつきも変わる。
 だから、気持ちよく音やら言葉やらがするすると出てくる状態に自分を保つのが工夫の第一課題となる。
 無駄にいじくらないために私がすること。
 まず、自分にこう言い聞かせる。
「私の中には、色々なものがわんさかと堆積しており、それがほどよく熟成している」
「頭の上から、あるいは心の深いところから何かが降ってくる、あるいは沸き起こってくるのを止めるな」
 そして、心はリズムに乗り、その振幅を感じながらどんどん先へと進んで行く。色々な世間の大変そうなことすら、この方法で発想すると、楽しいことのように思えてくる。
 アーティストとは、およそそれ以外の人々が発想しないことを思いつく人々のことである。勘違いかも知れないが、同じようには悩まず、同じようには苦しまず、同じようには振る舞わない。
 人は、それに触れると、「ああ、そうなんだよね、それなのよね」と気がつく。
 その発想は、相当高いレベルの表現能力や技術がないと作品にならない。発想を自在に出せるまでの、気の長い訓練や打ち込み方が、これがまた、アーティストならではなんだが。
 そういう人々に囲まれて、この年になってみると、これが大変楽なのである。
 だれも、無理はしないし、勝手気ままで。
 でも、素晴らしくアンサンブルする。
 アンサンブルの極意を、時々体験できるだけで、私は大変な人生を何とかこれまで生きてきて良かったと、しみじみ思うのだ。

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このページは、kyokotadaが2008年2月 6日 20:16に書いたブログ記事です。

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