海との出会い

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 私の会社のスタジオ「トライブ」には、色々面白いオプションがあるのだが、そのひとつが目の前の飲み屋さん「霞朝」である。
 ここには、いつも人がわんさか来ている。
 以前からのお客さんに、1年前オープンしたうちのスタジオのお客さんも参入して、前にも増して賑やかになったみたいだ。
 その常連さんの一人が、私の小樽の高校の時の親友シバ君の大学時代の親友であることが判明。世の中は狭い!と改めて感動した。
 その友達の友達が、この間またその友達を紹介してくれた。
 大きくてスキンヘッドで格闘技する人のように見えるが、じつは、シーカヤックの日本の第一人者ということであった(密かに格闘技の訓練もしているらしい)。
 カヤックは、湖や川を漕ぐものかと思っていたので、シーカヤックと聞いて驚いた。あの、小さい船で海に漕ぎ出すとは。
 名人は、シーカヤックに魅せられた理由と、海に一人浮かぶ心境を語ってくれた。
 それは、広い海の中でどちらの方角に行っても良いという限りない自由であり、しかし、自分なりの航路の計画というある種の創出であり、天候次第では下手すると死ぬという、この世に存在する自分の臨界点を見極める闘いであるという。
 何より、地球の表面に浮いているのだが、船の下には深い深い海があるという実感が良いのだと。

 感動的である。
 私には、その行為が人生と同じもののように思えた。
 右も左も分からずに、世の中に漕ぎ出す。
 自分の船はあるが、何もかも設備はお粗末である。
 それでも、なけなしの道具やら体力やらを尽くして、あちらへ行ってみたり、こちらへ行ってみたり...。
 失敗したり、無惨に負け続けたり、疲弊したり、ぬか喜びしたり。
 そのうちに、知らず自分なりの航路が見えてきて、幾分楽になるかと安心する。すると、その先から嵐が来る。波に揉まれ、風に吹き飛ばされながら、必死に耐えているうちに、気がつくと天の恵みのような穏やかな日も来る。
 その時に至ってやっと、これまで、一日たりとも無駄な日のなかったことに気付く。生きている間中、一日も同じ日はなく、一日も無為に過ごしたと言える日はなかった。たとえ、自分を唾棄した日でも、無力に絶望した日でも、孤独にうちひしがれた日でも、めげず闘い続けてきたことを理解するのだ。
 どこにたどり着くかではなく、たどり着く途上を味わうこと。
 シーカヤックと人生の醍醐味は、なんと似ていることだろうか。

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このページは、kyokotadaが2008年2月 6日 20:15に書いたブログ記事です。

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