知識から離れて

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 長く生きていると、色々なことを知識として知ってしまう。
 けれども、知識は筋肉とは違うな。
 歌っているとき、知識はいらない。
 というか、さんざん、知識で歌って、歌って、歌い倒して、ある時から知識はいらなくて、心とか体の筋肉だけになるときがある。
 ここで言う筋肉とは、どこまで行ってもメタファーだけれど、もう、いい加減、頭が満載になっている感じなので、それは放っておいて、私はただそこに、立っている。すっと立って、すっと歌う。そういう気持ちよさが分かってくる。

 仕事では、若い人たちを叱ってばかりいるような気もするが、それは、わたしが色々なことを知って、その上での頭や体の使い方が、若い人たちとは色々違うので、しばしば困ってしまうからだ。
 困ると、エネルギーが鬱屈して、怒りたくなる。
 イライラするとか、むかむかするとかとは違う。
 この高ぶったエネルギーをどこに発散すればいいのさ、と困る感じだ。
 仕事がはかどっているときは、自分は、ちょっと凶暴だとも思う。
 アグレッシブ、というやつだろうか。

   この間、札幌に行って友達に会った。
 シバ君によると、世の中に向上心とか、達成欲のない人間が存在することを、この年になってはじめて知り、驚愕した、ということであった。
 類は友を呼ぶので、札幌で集まる4人は、みんな可笑しいほどに挑戦的だ。
 大病から生還して健康な人以上に精力的に仕事をしたり、ママチャリで札幌と旭川を往復したり、20kg以上減量したり、とみんな激烈である。
 そういう仲間からすると、まったりした人々は、いったい何を恃みに生きているのかよく分からない、不思議な人々に見える。  けれども、多分、まったりした人々は、私達のような種類の人を見ると逆に、何でああいつも切羽詰まっているのか、疲れないんだろーか、気が知れないなぁ、と思っているかも知れない。
 日向の水みたいに、とろ~ん、と生き続けている人々もいる。
 ほんとに、とろ~ん。
 その密度の違いみたいなものが、とても不思議だ。

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このページは、kyokotadaが2008年10月15日 21:38に書いたブログ記事です。

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