スターウォーズの一挙放映特集を観て、「凄い!、やっぱりハンパなく凄い」と感嘆した。最初の「ジェダイの復讐」は、ロードショーで観た。テアトル東京だったかな。あの時の、口あんぐりしかできない驚きは、その後のアメリカン・エンタティンメントにやられっぱなしの時代の幕開けだったような気がする。
これだけのものを作るのに、どれほどの労力が注がれているか、想像するだけで気が遠くなりそうだ。
若いときに創りあげた壮大な「物語」があり、それを脚本化して映像化する。 ジョージ・ルーカスの生涯は、ほとんどそれのみに費やされている。
「物語」は、小説にはならず、映画になった。
小説はひとりで書けるが、映画には限りなくたくさんの人々の叡智が必要とされる。そこで、新たな職人やアーティストが発生する。それまでは、アイディアや夢想でしかなかった技術が、具現化する場を得る。
ビジョンを顕在させること。
このシリーズが発想されたお陰で、映画界のみならず、メディアの全て、そして人々の内部にも「できること」の種類や内容が飛躍的に増えたのである。
開発されたそれらの技術は、急激に可能性を広げた。
夢でしかないと思われた映像を、実現する技術。
技術を知ってから発想される新しいアイディアは数知れないだろう。
そのように、技術のみを借用して作られた膨大な数の作品には、しかし、二流の感拭いがたいものが多い。
つまりは、最初にルーカスの中あった「物語」の水準こそが全てを決していたことを知るのである。
はじめに言葉ありき。
言葉が世界を作り始める。
言葉、ひいては物語が、クリエイターやアーティストの想像力を喚起し、膨張した果てに特殊メイクやロボット制作、CG、音響など、あらゆるテクノロジーの可能性を押し広げた。
クラウドのように彼らの意識の上空に発育し続けた「宇宙を舞台とした壮大な叙事詩」の共同幻想が、ルーカスの実際的な指揮の下、急激な勢いで進化し、具現した。
奇跡のようなこの出来事が実際に起きた、めくるめくスリリングな時代性こそ、私達の個性なのだ。
「スター・ウォーズ」に驚いた頃は、音楽界も素晴らしかった。
次から次と、それまで耳にしたこともない音楽が溢れだしていた。
マイケル・ジャクソンはもちろん、スティーヴィー・ワンダー、ボブ・マーリィ、アース・ウインド・アンド・ファイヤー、クインシー・ジョーンズ、チックやハンコック、ミルトン・ナシメント、フローラ・プリン、ウェザー・リポート、スタッフやボブ・ジェームス...And More...。
中心的な存在だけでこんなになる。
ほんとうに数え切れない数の凄い人々。
そして、若かった私はいちいち興奮していた。
ひとつずつが確実に個性的で、その周囲にさらに少しずつ個性を異にするたくさんのプレイヤー、アーティストがいるのだ。
この先は一体どうなるのだろう??
けれど、その一方で、これが究極かも知れない、という思いも抱いた。新しいものはもう限界まで出尽くした。
その後に続いたワールド・ミュージックが、マニアックな範囲に落ち着いていることを見ても、世界に埋もれていた個性的な音楽は出尽くし、ある意味標準的なプラットフォームを通過して、消費されたと考えてしまう。
クラシック音楽が、20世紀初頭に、絶対音楽として最大の構築に至り、その後は観念的な芸術音楽になりつつあるのと同じく、アメリカン及びブリティッシュのポピュラー音楽は、20世紀終わりに完成を究めたような気がする。
再生するハードが充実した今は、過去の遺産としてある優れた作品を消費する時代だろうか。コラージュされ、デフォルメされた素材としての遺産が蕩尽された後に、全く新しい方法を携えたアートが頭をもたげてくるのかも知れない。それは、映画とか音楽とかアートとかに分類されるものではない何か。
と、ここまで書いて、当初に書こうとしたテーマと大きくずれていることに気がついた。これ、まさに、ロラン・バルトのエクリチュール論をそのまま。
はじめは、「しつこさの美点」について書きたかったのに、つい色々な連想が入り込んで、音楽論になってしまった。
ここで突然ロラン・バルトが出てきたのは、今「現代思想のパフォーマンス」(光文社新書)という本を読んでいるからで、これはソシュール、バルト、フーコー、レヴィストロース、ラカンをとりあげて実践的に理解しよう、というもの。
私は大学で、ちょうどこの辺りの思想を扱うゼミにいた。
とくに、レヴィストロースは「悲しき熱帯」が未訳だった時に、フランス語で原書講読させられ、ちいとも、どころか相当わからん状態を経た(後に川田順造氏が翻訳)。
この世に、これほどわからんことがあったことに、呆然とし、その後、ちょこっと精神医学方面に入り込み、しかし、ソシュール...現象学とかが不意に意識に上ると、当時わからんかったことが気になり続け、本屋の棚にその手の解説書があるとついつい買ってしまう。
その結果、今では随分わかってきたような気がする(気のせい?)。
そういう自分を振り返って「しつこい」と思うのである。
ジョージ・ルーカスが人生をかけて、若い頃に書き上げた叙事詩を映画にする姿勢を見て、「人生にしつこく取り組みたいネタがあるって幸せかも...」と思ったのだった。
また、私は自分が、「それにしてもかなりしつこい」とも思った。
でもこのしつこさ、ストーカーにはならないで、音楽や思想に向かっている限り、美点かもしれないでしょ。
あぁ、やっと、着地した...かな...?
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