怒るとき

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 私はあまり怒らない方だと思っている。

 しかし、「怒ったら怖そう」と言われる。

 怒ったら怖いと言うより、私の場合、怒るとそれが関係の最後だったりはする。

 つまり、誰かに対して怒るときは、もう関係を回復しなくて良いと思うから怒っていることを外に出すのだ。

 その以前にも、多分、同じ人に対して数回は怒っている。

 その数回が、何度目かについに最後になるのである。

 始終怒ったりけんかしたりしながら、その関係性でずーっとつき合い続けている人たちもいるが、私にはそれはできない。人間同士であれば、共有する時間の、せめて78割は楽しい関係でいる方が良いと思うからだ。

 だから、怒りが、自分でも、もうしょうがないなと感じる領域に入ってしまったら付き合うのをやめる。

 それは、お互いのために離れた方が良いと感じるからだ。

 嫌いでなくても、あまりに感性や価値観がずれていると、それを押して付き合い続けること、緩衝を作り続けることにエネルギーを注ぐのが辛くなる。

 相手も同様だろうと思う。

 

 私が、自分でもなぜこんなに、と思うほど怒るのは、善意を仇で返された、と思うときだ。

 こちらが譲歩したり、気を利かせたつもりで動いたはずなのに、全く通じていないとか、それ以上の時間なりものなりを感謝もなく奪って行かれたとき、あるいは要求されるとき、猛烈に腹が立つ。

 

 私は、自分を大切にするのと同様に、他者を尊重する。その人のために良かれと思うことをする。自分の役割をよく考え、言いたくないことも言うし、怠けず責任も取る。人によっては、強い人だとか、怖いとかいうことになるのだろう。私自身は、ただ誠実であろうと思うだけだが。

 善意を当然のように、感謝もなくさらなる贅沢を要求されると、私は心底がっかりするし、猛烈に腹を立てる。相手に経験値や理解力がないことがあるのは分かる。しかし、当事者になったことがない人ほど、批判や批評が多い。

 

 私は、それなりに努力している。

 これは、誰に恥じることなく言える。

 私はいつも、周囲の人々が良く活かされるように、才能を埋もれさせないように、不得意なことにいたずらに時間を割かなくて良いように、あるいは、音楽や企画のプロとしてアマチュアの人々の良い助けになるように、日々心を砕き体を動かしている。

 それは、なかなか厳しい世界だ。

 誰かに甘えかかったり、助けてもらうことを前提としない。

 協働はするけれど、ギブ&テイク、またはギブ&ギブで宜しいと思っている。

 

 その境地にいたるまでには、とてもたくさんの失敗や敗北感や慚愧や後悔があった。自分が打ちのめされるとは、どういうことかを嫌と言うほど味わった。

 そうして、今やっと、毅然と怒ることができるようになった。

 怒りは、人生にとってとても大事なことなのだ。

 生きる中で、深く愛すことと強く憤ることは表裏になっている。

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このページは、kyokotadaが2010年8月16日 14:35に書いたブログ記事です。

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