読んだ本: 2010年5月アーカイブ

大型連休(ゴールデンウィークともいう)に札幌に行ってきた。
高校時代の音楽仲間と会って、当時作ったオリジナル曲を演奏し、精査し、コーラスをつけ、アレンジの可能性を相談し、という会である。
これらを、私が持ち帰って、打ち込みか演奏でオケを作り、それをまた札幌に届けて歌入れをする、という予定である。
この旅行の前に、新宿紀伊國屋書店に出かけて2冊の本を買い、持参した。
今回はひとり旅。
時間を気にせず、ゆっくりホテルで読書しようという心づもりである。
1冊は梨木香歩のエッセイ集「渡りの足跡」、もう一冊は村田喜代子の短編集「故郷のわが家」。
梨木香歩という作家は、好きとか嫌いというレベルでなく、「尊敬」ということばを使って紹介したい作家のひとりである。
この世に生まれてきたからには、ここまで深く、じっくりと思索していたいものだと、いつも感服する。全てのことに於いて、取り組む時間と手間が豊かなのだ。ちょうど、職人や学問をする人々のように、ゆっくりと、焦らず、丁寧だ。
最近では、深く手を掛けることと、拘泥することとが、何か一緒くたに受け取られてしまうように見える。
深く思索する人は、そうでない人から見ると「おたく」と呼ばれる人々と同じエリアにカテゴライズされてしまいそうだ。
生理的な欲求で何かに愛着したり、固着したりすることと、自分に問うために「深く掘り進む」こととは質が違う。ひとつことに労力や時間を掛けるという事実だけが同じであるため、表面的には似て見えるのかも知れない。
最近、その違いを分かる人にあまり出会えないのは淋しい。
「渡りの足跡」は、野鳥の渡りを追いながら、旅の途上、喚起され連想される、印象深い人々との出会いを書いたエッセイである。
人の在り方は、鳥たちが立ち向かう自然の厳しさと美しさを背景に、さらに複雑な人類の厳しさと問題とを同時に含んでいる。
梨木さんの落ち着いて静かな思考。それでいて底に滾るように流れる憤りや哀しみがひしひしと伝わる。
見習いたいのは、否応なく感情的になる毎に、客観の位置からフィードバックして、自戒し、冷静を取り戻そうとすること。
自分を感じるためには、この絶え間ないフィードバック作業が不可欠なのだ。
隅々まで、しっかり味わって人生を過ごす。
遅ればせながら、その覚悟の大切さを日々自分に言い聞かせる。
鳥を見る舞台は、北海道であったり、シベリアであったり。札幌にいてその本を読む贅沢に感謝した。
村田喜代子は久し振りに手にした。
この短編は、住む人のいなくなった自分の生家を片付ける初老の女性の話。舞台は日本の南、九州の田舎の、やや高原にある古い家。愛犬を連れて古家を片付ける日々にわき出る夢と幻想が楽しい。南米文学のように、「別にいいじゃん、妄想でも。そもそも人って、妄想でできているでしょ」といった雰囲気が、跋扈する。
独りで幼児の記憶に浸りながら作業をしたなら、なるほどそのような気配に取り憑かれるだろう。頷きつつ多少羨ましくもなる。私の生家はもう跡形もない。
山里の自然の中でめくるめく、生死の隔てすらない幻想。それは人の一生を、回想とは別の形でまとめる儀式のようだ。
この本にも、野鳥の話が出てくる。何となく「鳥」づいた旅の読書となった。
ところで、昨日、田無駅の構内にある売店で雑誌を探すついでに、ふと文庫本の棚を見ると、わずか10冊にも満たないその中に、佐藤亜紀の「ミノタウロス」があった。
駅の売店に置いたのは、出版社の営業さんか、それともその売店の仕入れ係?
いずれにしても、なぜこのようなセレクトが実現し、私の目に入ってきたのか。運命だと感じてその文庫を買った次第。
なぜなら、佐藤亜紀も大好きな作家。たしか、めったに他人をほめないこの人が絶賛していたのが梨木香歩だったように記憶している。この人が褒めるのなら、どうあろうが一度読んでみなくては、と手に取って一読。深く納得した。なるほどそうか。
「類は友を呼ぶ」と言うが、この場合「類」ではない。
「深さ」が友を呼んでいる。

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