ある日、思った。
なんでおかまはいっぱいいるのに、逆は少ないのだろうか?
ニューハーフとかおネエ系とかも含めると、女性らしい男性はあちこちで目につく。
カリスマのようになっているタレントもたくさんいる。
でも、逆に男のように見せたい女性は少ない。
なぜなんでしょう。
歌を教えていると、男と女では音域にずいぶんと差があることが分かる。
女声は、ほとんど似たような範囲に収まっていて、はみ出る人は珍しい。
しかし、男声は、ものすごく低い声から女性のように甲高い声まで音域の個人差がとても大きい。
声ひとつ取っても、バリエーションに富む可能性のある男性と平均的なところに集中している女性。
男にはシュワちゃんもいるし、山咲トオルもいる。
その差って、長与千種と千秋の間にある違いより大きくないか。
男は、女より個体差の幅が広いかも知れない。
そのせいか、ひとりひとりの個性は強いよね。
女が男に色々なことを要求し、期待するのは、
自分、つまり女自身の融通無碍を基準にしてしまうからかも。
「お金稼いできて、家事も分担して、育児も手伝って」
それを、女はこじんまりとこなすことができる。
子供を産んで、家事をして、パートに行って。
一度にレベルの異なる色々な用事を、女は平行してこなしてしまう。
でも、そういうことを、男はなかなかできないみたいだ。
男たちは、ひとりひとりを見ると、わりと融通が利かない。
でも、融通の必要ない場面では力を発揮する。
いわゆる、専門職ってやつ。
そのことだけ考えていればいい、とうところにいて存在価値を認められていると男は幸せそうだ。
ところで、
長年家事をやってきた経験からすると、家の仕事はなかなか複雑だ。
簡単には引き継ぎできない。
家事というのは複雑に入り組んでいて、会社の部署のように役割を分担して進めると合理的ではなくなる。
食事だけ作るとか、洗濯だけするとか、あるいは掃除だけする、という形態に分けられるものでもなく、何をするにも全部がちょこっとずつ関わっていて、それぞれを独立させるのが難しいのだ。
そんな家事を男に任せようとすると、単品注文しかできない。
掃除ならば、「ここをこういう風に拭け」、と指示すればやってくれる。
しかし、家事としてやるべきこと全てを全日に配分して、
それぞれ、隙間隙間にこなして行くのは苦手みたい。
家事で重要なのは、家庭のハード面とソフト面についてどのようなイメージを描いて動いていくか、ということ。
会社で言えば、総合プランニングみたいなことかな。
これが各企画に分かれ、やっと具体的な設計に至る。
主婦の手腕の在処は、家庭の在り方についてのイメージ力と段取りなんだね。
家庭は、誰を、何を優先するかによって絵柄が変わる。
子どもか、妻か、夫か、あるいは祖父母か。
その中の誰のどんな都合か。
家のレイアウトもインテリアも清潔度も食事の栄養価も品数もかける手間も時間も家族の誰が何をどんな風に必要とするかで色んな風に変わってしまう。
それを分担でやり通すのは大変だ。
私は、仕事を家事に優先せざるを得ない、と分かったとき、家庭の美観を諦めた。
とにかく、洗濯はしよう。
朝ご飯と弁当は作ろう。
他は、成り行き。
残念ながら、十年以上整理整頓と掃除に頑張ってきた家庭は妻、仕事優先の結果、五年で足の踏み場もなくなっている。
プライバシーもへったくれもない。
今日生きて、明日が迎えられればいいや、というサバイバルな感じ。
その点、男は気楽なものだ。
我が家の男二人は、家が汚くなってもやっぱり自分の好きなことしかしない。
自分が楽で、楽しいことしかしない。
そんな家にいると罪の意識がわく女たちは、外に出かけてしまう。
家に女の溜まり場が無くなると、女は家に帰ってこなくなるみたいだ。
汚い家を見て、「ああ、掃除も片づけもやらなくちゃ」と思うよりは外で働いている方が楽しいもんね。
そして家庭は果てしなく乱雑さを増す。
男が家に居続けると、家庭が崩壊する、ってことはないだろうか。
定年退職した男が家にいることにしたとたん、鬱病になる奥さんがいっぱいいる。
予防のために、奥さんたちはなるべく外に出かけていく。
それでやっぱり家はひっそりしたりする。
男が外で稼いでいるとき、「手伝ってくれない」と不満だった奥さんたちは、せっかくいてくれても役に立たないばかりか、何かにつけて文句ばかり言ううるさい旦那に愛想が尽きる。
でも、男はそういう風にできている。
卑屈な男には魅力もないしね。
だから多分、男の居場所は家庭ではないのだ。
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