時間がない

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平日の午後3時過ぎ。
ケーブルテレビ、チャンネル41では、ピーター・グリーナウエイ監督の『コックと泥棒、その妻と愛人』という映画が消音設定にて上映中。
コンポからは、ウィーン・フィルハーモニー、サー・ゲオルク・ショルティ指揮によるワーグナーの楽劇『ニーベルングの指輪・第2日ワルキューレ』が流れている。(1965年版だから、私まだ10歳!)
これらに囲まれて、私は原稿仕事をしております。

なんだか贅沢だ。
贅沢で、スノビッシュで恥ずかしいほどだ。

いつもいつも、ながら族である。
ひとつのことだけしていると、退屈なんである。
テレビを見るときは、傍らにリモコン・チャンネルと本と新聞を持つ。
つまらなったら、すぐにチャンネル変え、コマーシャルの間は新聞か本を見る。
漫然とコマーシャルを眺めるなんて、時間の浪費、退屈。
そんなことで活字に集中できるのか、と思われがちだが、この合間読書で結構シャープに良いフレーズが見つかったりする。
とにかく、いつも色々な楽しみが身の回りに豊富にある、という状況でないと我慢できない。

話変わるが......
20歳前後の頃、植草甚一のエッセイにはまった時期があった。
読んでも、読んでも、知っている本もアーティストもほとんど出てこない。
だいたいが、アメリカのミステリーとアバンギャルドなジャズなんかについてのだらだらーとした感想だったと思う。
植草氏は、1970年代、頻繁にューヨークなんかに居り、日本人の知らない古本屋や中古レコード屋で掘り出し物を見つけていた。
そして、舌なめずりしながら、それらを読み、聴き、感心したり、蘊蓄を垂れたり、連想したりしていたのだ。
それをだらだらー、と書いた長々しい独り言を本にしたものが、洒落た装幀で、晶文社から何冊も出ていた。
箱入り、なんてのもあったな。
植草氏ご自身のコラージュの装幀だったりしたかな。

20歳位の私がそんな本を読んで何が面白かったか。
間違いなく、私が好んだのは、植草甚一の「面白がっている感じ」だった。

それ以前、高校生ぐらいの時には、戸板康二の歌舞伎評論ものが好きになっていた。
人口わずか2万人の北海道の田舎の町にいたので、歌舞伎なんてNHK教育テレビでしか見たこと無かったのに、どうして評論だけを楽しめたのか。
それは、「面白がっているのを読むのが面白かった」からである。

誰かが何かに感動して、あれこれ要らないことを喋り散らすのを見ているのが好きであった。
自分のことで言えば、好きなミュージシャンの新譜が出ると、晩メシ抜いても買いたい、聴きたい。それを手に入れれば、家に帰って針を落とすまで、わくわくわくわくわくするものだが、そのわくわくわくわくわく気分が、伝わってくるような書き物が好きだ。

この世には、私が聴いたことも見たこともないものにして、爺さんたちをこのようにわくわくわくわくわくさせるものがいーーーっぱい埋もれている、と知って、宝の地図を見せられているような気分になった。「あーー、まだまだこの世には私の未体験な感動がわんさか埋もれているんだ」と、生きる勇気...じゃないな、生きる下心のようなものを励まされた。

まぁ、これに騙されて今日まで生きてきたようなものだが、依然、この年になっても、まだ命根性は汚く、欲深く、平日の午後3時にこういうことをしている。
恥である。

友だちのジャズ・シンガー清水秀子ちゃんを聴くと、私はいつも、どうして彼女のように落ち着いて、じっくりとできないのか、と残念に思う。
私は、いつもチャカチャカしていて、気が多い。
気が多いというか、気が散っている。
落ち着きたい。
落ち着きたいが、テレビもコンポも消せない。
書く手も止められない。

だって、時間がなーーい、んだもの。
あっ、ひょっとして、私、早死に??

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このページは、kyokotadaが2004年5月26日 11:44に書いたブログ記事です。

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