親は大切にしなくてはならない。
大切にして、時には喜ばせなければならない。
しかし、親との経済格差が10倍あれば、何をプレゼントしても喜ばれない。
ある時、帰省したら父にプレゼントしたはずのゴルフシャツを着ていたのは、近所のおじさんだった。
父は、銀座あたりの店のシャツしか着ないのだった。
そして私が贈ったのは、SEIYUのバーゲン品だった。
そんなもの贈らなければよいのだが、父の日には何かを贈るべきだと信じていた。
信じて、子どもたちのトレーナーを5枚買える値段を父のゴルフシャツに投資したのだ。
残念だった。
親孝行をしたいときには、親はもう死んでいるということになっている。
子が出世して、さあ、何でもしてあげられると思ったときには、親はこの世にいないということだろう。
ところが、私の場合、子が親より金持ちになるチャンスは無かった。
何か買ってあげようとしても、段ボール箱いくつも、着たくなくなった和服を送ってくるような親に買ってあげられるものはない。
親の方がたくさんの貯金と高価な品物を持っている。
それでも、ぜひとも私は親孝行をしたいと思うのだ。
ある日考えついた。
親孝行とは、親密であることをやめないということではないか。
しかし、全く違う環境、職業で暮らしていると話はほとんど通じない。
帰省すると母はいろいろな世間話をするが、話題に登場する彼女の知り合いを、私はほとんど知らない。
娘である私を可愛がり、肩入なぞれすると、同居する嫁に悪いと思っている母は、私に冷たくするのが正しい姑の在り方だと信じているから、さらに話は深まらない。
話題というものは、禁止が多いと盛り上がりようがないものだ。
だが、子どもは、一方的にであれ、親と親密であることはできる。
親を忘れず、しばしばわが身を省みるための素材として用いればよいのだ。
私はいつでも、私を成している構成要素として親のありとあらゆる影響を取り出し、その味わいを吟味することができる。
ある日ある時の親の行動、表情、声の調子。
その背景にある、前意識、無意識、防衛。
さらに、その一つひとつに対する私自身の反応。
生育歴、記憶、連想、神経症、強迫観念。
おそらく、私はかなり親密に親を迎え入れている。
コミュニケーションは通り一遍であっても、5分の電話の内容からでも、最近、何が彼女の中で起きたのか、様々な葛藤を空想することができる。
それは、単なる妄想かも知れず、ただ私の中にでっち上げられた仮定的な母親には違いないのだが、そうではあっても、私は、誰よりも緻密に母の人格を知っている。
なぜなら、母の剥き出しの無防備な人生の傍らに、私はいたのだ。
ことあるごとに親を取り出してじっくりと分析する。
これは最大の親孝行ではあるまいか。
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