買い物は楽しい。
何か作るのも楽しい。
問題は、ものが増えるということ。
1955年という私の生まれ年は、昭和でいうと30年。
戦後10年目である。
親たちは莫大な買い物をした。
電化製品や衣料品、旅行のお土産、中元歳暮、誕生日プレゼントや祝い事の度の引き出物、行事の用具、日用品。
とにかく欲しかったようなのだ。
海外からの珍しい到来品やら、各地の名産品、果ては価値があるのかどうか怪しい美術品まで。
私の実家と夫の実家はともにものすごい量の物で溢れている。
そして当の持ち主たちは、ひとりを残して他界してしまった。
かつて、ものを持っているということは、財産家ということであった。
だが、そう思っている間に、ものを捨てるのが困難な時代が来てしまった。
ものを捨てようとすると、大層なお金がかかる。
こうなると、使いようのないこれらのものは一体何であるのか、実に、意味不明なことになってきた。
先日、地元で夏まつりを催した。
一昨年まで、21回続いた大規模なまつりがあった。
新興団地に入居した意気盛んな人々が立ち上げ、毎年拡大してきたまつりだった。
まつりを仕切るのは事務局長で、体力実行力人心把握ともに有能な2人の女性が歴代の事務局長を代わる代わる務めてきた。
ところが引っ越しされたり体調を崩されたりで引退、なぜか最後の2回だけに限り、私がその重責を負うことになった。
やってみたら、それはそれは、筆舌に尽くしがたい大変さであった。ボランティアで3ヶ月かかりきりというのは正直つらい。
ために、3度目にはさすがの私も引き受けかねた。
すると、21年間続いたまつりは呆気なく中止になった。
8月末の土日、2千人からの人々を集めて大規模に開催されていたまつりがなくなってみると、大変すぎて手伝いたくなかったという方たちからも、再開してみようかという声が挙がり始めた。
しかし、事務局長の引き受け手はない。
百数十万円あった予算も計上されなくなっている。
さらに、会場とされていた校庭をもつ小学校は、統廃合のため社会教育や福祉の総合施設に変わっている。
それでも、地域の福祉団体が立ち上げてくれたお陰で、例年の10分の1かそれ以下の規模ながら、まつりらしきものを開催する運びになったのだった。
倉出しの日、倉庫を開けると、あるわあるわ、かつて道路や会場に張り巡らした電線、照明器具、提灯、アーチ、みこし、装飾や看板、わたあめ、かき氷の機械、ヨーヨー、金魚すくいの水槽、備品、景品、はっぴ、事務用品などなど、軽く倉庫に2つ。
関係したことのない人々には、何が何やらさっぱり分からない物品がどっさり。
一体これらをどうしたものか。
捨てるにしても、誰がどう判断して、捨てるものを決定すればよいのだろうか。
倉庫を開けて、私は自分の二軒の実家を思い出していた。
自分ではない、誰かが買い集め、ため込んだものの山。
それをどうにかしなくてはならない。
実行するのは、私の世代なのだ。
そう思いながら捨てる過程に思いをいたし、どっと押し寄せる徒労感に苦笑いする。
ものを捨てるには、かなりの精神力が必要だ。
捨てるとは、買い集めた人々の憧れや満足に思いを致す作業だ。
一生懸命働いて、やっと手に入れたもの。
折衝を重ね、工夫して予算を勝ち取ったときみんなが感じたであろう喜びや達成感。
かつて沸き起こったはずのさまざまな情熱を思いながら、その後の時の流れが意外に速かったことを自分に言い聞かせる。
ひとつずつ、すでに使いようのない無用の長物と化していることを確認し、それを自分に納得させ、そこにはいない当事者たちに詫びる。
「すみません、とっておきたかった気持ちは分かります」
「とって置いてあげたいのですが、止む終えません」
胸には、捨ててしまうことに対する後ろめたさや、後悔するかも知れないという心配が錯綜する。
溜め込むだけで、知らんぷりを決め込む人がある。
後進に道を譲るというきれいな言葉。
しかし、後進は人数が少ない。
これからどんどん世代ごとに人数は減り続ける。
そしていつも後始末だけが残る。
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