音楽仲間は数知れずいるけれど、天才を感じる人にはなかなか出会えるものではない。
今日は、私が天才と思う人について。
この話を始める前に、だいたい、「天才」って何だ?
天才というものがどういう形で存在するか、ということについて、定義を語る人に出会ったことがない。きっとそれは実物を目の前にしないとわかり得ないものだし、出会っていても、視点がその人の天才に向いていない場合、気づかないで終わる場合すらあるからだろう。
知り合い、友人の中に天才はいますか?と訊ねられて、「はい○○さんです」と即答できる人は、きっと少ないはずだ。
天才の定義そのものが、ひとりひとり違っているし、その天才を理解できる人自体が数少ないはずだから。
自分の大切にしている分野でなら、運良く、天才を感じ取る基準が育っているかも知れない。
あるいは、何かの瞬間に神の啓示のようにそれを感じ取るか?
橋本治氏によれば、人は自分の理解の範囲を超えたことについては、価値判断ができない、いわゆる思考停止状態に陥るのだという。
自分の理解を超えたことは理解できないし、自分の感性の外にあるものは感じ取れない、実に、聴き取っているはずの演奏は、自分の聴き取り能力を超えることはない。
分かりやすい例を引けば、外国語。
知らない言語の意味は分からず、ただの音の羅列にしか聞こえない。
オーラが見えるとか、幽霊が見えるとかいう能力は、その能力を共有する人には信じられるが、ない人にとってはただのまやかしにしか思えないかも知れず...。
で、「天才」。
私の周囲で私がそう呼びたいのは、ギタリストの加藤崇之氏である。
ギターの演奏は素晴らしい。
描く絵も素晴らしい。
一緒にいると存在自体の時間経過が他の人と違っている感じがする。
私たち凡人は、時間の区切りを頼りに生きているかも知れないが、彼の時間経過は自在に伸びたり縮んだりしている。
瞬時の感性の動きもあるが、全体どこも止まらず区切れずうねうね続いている。
何をしていても、アートの感性の部分だけが息づいている感じ。
つまり、生活全般の時間経過や感受性がアート、表現のための感性につながっているのだ。
彼は誰とでも偏見なく話すし、子どものために誠意を見せるという普通の父親の感覚や社会性もある。
だが、普通ではない。
この感じは、しかし、私に唯一の感想かも知れない。
きっと、受け取る人によって様々に色が変わる。
語る言葉も変わる。
色々な場所で多くのミュージシャンから訊かれるのだ。
「加藤さんと演奏しているんですよね。いいなぁ、一度ご一緒してみたい」
そういう、遠慮される「天才」に伴奏してもらって歌うのである。
凡人の私は、その音楽がコミットメントに溢れたものかどうかも良く分かっていない。もったいないかも。
彼の凄さというものは、音楽家にもっとも良く理解されている。
従って、みんな彼に共演を申し込む。
だから、いつも忙しそうだ。
ただし、そのジャンルの音楽はポピュラリティがない。
大変マニアック。
当然多くのギャラは出ず、毎日ものすごく中身の濃い演奏をし続けているのに、お金持ちにはなれない。
でも、彼は私と顔を見合わせて言うのだ。
「でも、この人生にぜんぜん後悔無いよね」
演奏や音楽をやっていることで享受するHappyは、大きい声では言えないが、唯一無二のものだ。
音楽家は、請われてやっと仕事の場を得ることができる。
「天才」は、ギャラの多寡ではなくて魂が「いいよ」と頷く場所に出かけていって演奏し、人を感動させ、自分も満ちながら、しかし慎ましく生きている。
彼の演奏を聴いたその夜の私は、人間の可能性というものを、改めて押し広げて考え直すことになる。