朝、テレビの芸能コーナーで、中年の「二枚目」俳優が新しいドラマの制作発表をする模様が流れていた。
そのドラマでは、カッコ良いことで名の知れた2人の俳優が刑事の役をやるらしい。彼らは役の服装と見られる黒づくめのスーツに濃いサングラスをかけ、足を組んでデイレクターズ・チェアに深々と座っている。
それはどこをとっても隙のない、いつの時代かの定型のカッコ良さであった。
彼らはレポーターの慇懃な質問に、きっちりスターらしく振る舞って答えていたのだが、今朝は、その様子が突然のように大きく時代から遅れた印象になってしまっていた。彼らもそれを感じ取っていたのだろう。受け答えのそこここに、居心地の悪さというか、テレらしきものが混じり込んでいる。
振る舞い方に窮したらしく、ひとりが立ち上がって今絶好調のお笑い芸人の真似をした。するともう一方も、別のお笑いネタの蘊蓄を傾けてみせた。
カッコ良い人がふざけるというのは、かつてはメディアに対する最高のサービスだった。それは、スターであるにもかかわらず気取っていませんという謙虚さの表明であり、同時に自分のイメージを多少汚しても、ファンや取材するレポーターに喜んでもらおうとするサービス精神を持っているという証明であり、別の意味では、少々おふざけをしても損なわれないほどの真のスター性を保持している、という確実な自信の表れでもあった。
ところが、朝食を食べながら、その映像を見ていた私が今朝のスターたちに感じ取ったものは「全てを読み違えてしまうほどの怠慢と緩さ」でしかなかった。
その読み違え方は、あまりに根が深いので、彼らの存在を哀れに見せるほどだった。
彼らがサービスと信じて真似をしたセリフや瞬間芸は、じつは激烈な競争を勝ち抜いたピン芸人たちが、気を抜いた途端に明日などないという、刃の上を歩くような切実な日常から発する時だけ輝くものであって、ある程度安定した身分を手に入れた、しかも、自分を二枚目と定義づけることに何の躊躇もない俳優が口にしてはいけないものだったのだ。
それを、安易な受け狙いで口にした途端、お笑い芸人より遥か上の身分にいるはずの二枚目俳優たちは真似した芸に逆襲され、彼らの現在の構え方、つまり仕事に対する態度の緩さや慢心、自分の見せ方についての真剣さの欠如を恐いほどに暴露されてしまったのであった。
私は隣で学校に行く準備をしている息子に言うともなく、ぼそっと呟いた。
「カッコ良い俳優って、なんてカッコ悪いんだろうね」
息子は深く頷いて、
「うん」
と言った。
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