享年56歳、高田渡さんが逝ってしまった。
そんなに若かったのだ。
中学生か高校生の時代からずっと、その存在を特別なものと感じ続けた人だった。
高校時代はとくに、詩の世界に惹かれた。
それはすみずみまで、渡さん独特の世界観に満ちていた。
合唱団で思い切り歌って、文芸部で小説や詩を書いて、軽音楽部の友だちとバンドやジャズをやる、というのが私の高校時代だった。
その中で、まだ幼く世間を知らない私に、「無欲の凄さ」を垣間見せてくれたのが渡さんだった。
大学が吉祥寺にあったので、憧れの「ぐわらん堂」の前を通って通学した。その頃からはジャズに没頭し、ぐわらん堂への足は遠のいた。
中央線とか吉祥寺とかライブハウスというものは、北海道に住む私たちにとってはるか彼方にある夢の世界のことだった。
「オズの魔法使い」の物語ように。
現実にその世界で暮らすようになると、憧れは手元近くに在ってはならないと知るようになる。私は、すでにフォークを聴かなくなっていた。
大学の卒業式の日に、友だちの家に泊まることになった。
その前に、その仲良しのメンバーでお酒を飲みに行った。
南口にあるライブハウスの「のろ」で、飲めないのに調子に乗っていつもよりたくさん飲み、あっという間に気分が悪くなった。
挙げ句、あろう事か洗面所で吐いてしまった。
意識朦朧、脂汗をかいた後、正気を取り戻すと誰かが洗面所を掃除している。
それが、高田渡さんだった。
「いいんです、いいんです、こんなことは、私も始終ですから」
そんなことを言いながら、酔眼で洗面所を洗っている。
これが、長い年月憧れていた吟遊詩人との初めての出会い。
数日して、同じ吉祥寺のサムタイムに出演していたら、歌う私の後の席から
「吐くなよーー」
と呟く声が聞こえた。
振り向くと渡さんがいた。
かなり酔っていたが、しばらく演奏を聴いて
「内海さんは大人しそうに見えるけれど、歌うと激しいね」
と言うのだった。
渡さんのバンドには、大学のジャズ研の下路先輩がギターで参加していた。
「今度私、ぐわらん堂に出ますから、その時ゲストで歌いにいらっしゃい」
何だか知らないけれど、いつの間にか時々一緒に飲むようになった。
屋台のような店が好きだった。
話は色々したけれど、真面目な話には取りあわない。
港で船舶の汽笛を聴いて開眼した、ような話をよく覚えている。
話はとかく、堂々巡りで、感じたことしか言わないのだ。
そして、なかなか喧嘩好き。
ジャック・モイヤーさんや佐山雅弘さんと落ち合う約束をしていた時には、ついでだと思って紹介したら、あのぎょろりとした目でいきなりにらみつけて、
「この人たちは何だ」
と、遠慮もなく突っかかられた。
ぐわらん堂のライブでは身がすくんだ。
自分が渡さんのファンだったのだから、お客さんの気質は良く知っている。
その前で歌うなんて、とんでもなかった。
私は、「ジョージア・オン・マイ・マインド」を歌い、
予想通りお客は引いた。
渡さんは
「この人は、普通のお嬢さんなんだけど、歌うとなると激しいんです」
と言って、
「今度、私の『猫の寝言』という曲を歌うと良いと思っています」
と言うのだ。
じつはそんな歌はなく、これから作ろうとしていたらしい。
「猫がね、夢見ているらしく、寝ながら何か言っていたわけです。それでね、思いついた歌でね、さわりはできているんです」
と言いながら、ひとふし唸った。
「こういう歌を、洒落たジャズクラブなんかで歌うとどういうことになるか」
みたいな事も言った気がする。
渡さんの隣に並んで歌う姿を見ていた。
ひとつの存在の固まりがいて、誰がどうしようとしても、絶対に変わりようがないくらい岩石みたいに安定していた。
その人間の有り様を、私は感じて納得した。
岩石みたいに居ながら、この世の中を生きていくのは、生半可じゃない。
だからこそ、そういう人が表現するものはすごい。
でもしかし、そうだからこそ、ひとりで生きていくのは不可能かも知れない。
いつか、自分が岩石みたいに安定したと思えたら、渡さんの『生活の柄』を私風に歌ってみたいと思っている。
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