生きている限り、ことあるごとにあらゆる選択をしなくてはならない。
生活の仕方、住まいのしつらえ、食べ物、飲み物、衣服はもちろん、様々な趣味も。
生理というのは恐ろしいほどに各人各様で、好みの多様さと言ったら目が眩みそうだ。
私は、音楽や読み物が好きなのでそれらについては広い許容量をもっていると思っているが、それでも、いざとなると聴く音楽はとても少ない。
読み通せる本もそう沢山はない。
同じCDを続けて聴いたり、同じ作家を続けて読んだり、それが一通り過ぎると、何も聴きたくない、読みたくない時期が続いたり...。
自分が歌を歌い、ライブをするので聴く人の好みは気になる。
評価を頂けるとすれば、聴く人が私とその日のユニットの演奏を気に入るかどうかにかかっているからである。
評価はいつもまちまちで、ある人がとても気に入ってくれた演奏は、ある人にとってはつまらないものである場合もある。
誠心誠意務めても、そんなものだ。
私の子どもたちは、皆音楽好きだが、ひとりひとり聴く音楽は全く異なる。
長女は中・高校生時代から一貫してインディーズのヴイジュアル系しか聴かない。未だに追っかけもやっており、変な格好をして出歩くのでぎょっとする。
次女は、洋楽のR&Bが好きで、しかも一曲をリピートして聴く。こちらも、私にはやや軽すぎてフィットしない。
長男は、ロック一辺倒。私はどちらかというとロックは聴かない。しかし、彼の選ぶバンドはいつもとてもいい。レディオ・ヘッドとレッド・ホット・チリペッパーズが好きで、最近はストロークスというのを見せてくれた。これも良かった。つまり、ジャンルを超えて趣味が合う。
ライブをすると、ミュージック・チャージ分楽しんでもらわなくちゃ、と責任を感じる。
しかし、ただ元気に明るく叫んでいればいいというものでもなく、音楽性ばかり追求すればいいというものでもない。
元気に叫んでいれば盛り上がるので満足感はあるが、いつも同じ内容になりがち。
様々な色合いの曲で構成すれば、飽きは来ないかも知れないが、私自身の個性やオリジナリティーは薄まる気もする。
その辺のさじ加減は、長く活動していて自然に感じ取り、程良さを身につけていけるものかも知れない。
ジャズ、フュージョン、ゴスペル、J-popまで色々なタイプの曲を歌っていると、「私って何?」と変な気分に襲われることがある。自分にないものに憧れて真似に堕してしまっているのか、消化してこなすだけのパワーがないのか...。
ピアニストは、「歌手は自分の声があるから、それだけで個性が出る」と羨ましがってくれたりするが、私自身は、「これが自分の歌だ」と胸を張れるものをまだ手に入れていない気がする。
毎日、終わったライブの内容やこれから予定されているライブの方向性についてあれこれ考えている。
ライブは、想い描いている自分の趣味や理想を現実の音にしてみることだ。
だから終わるたび、自分が手にした感覚を反芻し、次の機会にその先のことをしたいと高望みする。
そうしなくてはならない、なんてことは全くないのだが、いつの間にかしている。
成果は、音楽そのものよりも、体力とか視点の変化みたいなものに助けられることが多いのだけれど。
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