ライター稼業をしていた十数年というもの、ちょっと異常とも思えるほど活字を読んでいた。何を読んでも参考になったし、学びたいこと、知りたいことが山ほどあって、いくら読んでもその本から関連してまた読まねばならない本を探し当てたりしていた。
それが、この数ヶ月、ほとんど本が読めない。
そんなはずはない、と考えて、始終図書館なり書店に立ち寄ってめぼしいものを手に取るのだが、どれを取っても全然面白くない。
一体どうしたんだろうか。
子どもの頃、物心ついたらもう黙読していた。
子どもというのは、字の読み始めに音読するものらしいが、親に言わせると3歳くらいでふと気づいたら、じっと本を黙読していたという。
「お前には字を教えた覚えがない」と言うのである。
当然、私自身、字を習った記憶もない。
いつの間にか覚えて、何でもかんでも読んでしまうので、親は滅多なものをテーブルに載せないよう気をつけていたらしい。
しかし、それでも何でも探し出して読んでいた。
小学生の頃は、父親が寝床で愛読していた『月間宝石』まで、親の目を盗んで読んでいた。
早熟で興奮しやすいたちなので、書物ほど面白いものはなかった。
少年少女世界名作全集などは、しかし、余り好きでなかった。
中学生頃からは、SFや推理小説にはまり、その後三島由紀夫にはまり、純文学方面にかなりはまり、大学からはエッセイものや哲学・心理学などの学問解説書にはまり、子育て中はフェミニズムや教育ものにはまり、ライターとなってからは音楽書や書く物に必要な参考図書を読み漁り、何だか、本とともに人生を過ごしてきた気もするのだが、歌を初めてからこっち、どんどんと読む量が減り、ついにさっぱり読みたくなくなった。
その代わり、音楽は聴くようになった。
書き物をして、本ばかり読んでいた時代には音楽は聴けなかった。
まさに、解説などの書き物に必要な音楽を聴く程度。
それが今は、なめるように音楽を聴いている。
音楽というのは、色々な楽器で演奏するものであるから、何度聴いても新たに聞こえてくる音がある。
「あれ、これこんなリズムだったっけ」とか、「気づかなかったけど、ギターここでこんな音入れてるわい」というように、聴くたびに聞こえていなかった音に気がついて楽しい。
かつては、「ださいなぁ」と感じていた音楽だとしても、たまたま自分が別ジャンルのことに挑戦しようとなると、途端に大切な参考資料となり、その来歴などを考えて興味が沸いてくるのだ。
そこで、読書と音楽の自分の中での位置取りについて思いめぐらせば、それはかなりの程度『脳』の使い方に関わっているような気がした。
本を読んでいるときに使う脳味噌の部分と、音楽をやるときに使う脳味噌の部分は異なっている。
そして、脳味噌に出る快感物質というものは、ある程度習慣づけないと、スムーズに出てこないようなのだ。
つまり、ずーーっと本ばかり読んでいると、活字情報から快感を得る回路が出来上がる。
同様に、ずーーっと音楽を聴いたり、演奏したりしていると、それによって快感を得る回路が出来上がっていく。
これが両立すれば何てことないのだが、両立できる程度にしかやらないでいると、どちらも大した成果に結びつかないという気がする。
始めるなり、すぐに「快感」に結びつく回路ができたとき、その人はその道で何とかやっていけるだけの必要条件を手に入れたことになるんではなかろうか。
「良くおやりになりますねぇ」
「いやぁ、根っから好きですから」
というのは、つまり、そういうことなんだろうなぁ、と思うこの頃である。
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