誰かを罵ったことがない。
面と向かって、非難することも避けている。
けれど、色々な人から耳に痛いことを言われることはある。
多くの人は、相手にダメージを与えることを怖がらない。
自分の怒りは怒りとして、ストレートに出して良いと思っているみたいだ。
私は、自分の怒りが相手に与えるダメージを、事前に予測してしまえる。
それだけでなく、私が怒ると相手は随分手ひどいダメージを受けるようだと考えてしまう。それは予測であり、確信でもある。
「怒ってるところを見たことがないけれど、本気で怒ったらものすごく怖そう」
と良く言われる。
他人に対して、私は憤ることがないし、面と向かって相手を非難したりもしない。
自分の好みや趣味を押しつけることもないし、我が儘も多分、していない。
人生には色々辛いことがある。
私の場合、辛いことが人より少し多いかも知れない。
それを耐えて、やり過ごしたり、仕事の中に昇華したりしてうまく乗りこなしているつもりだった。
けれど、今朝、アメリカのアカデミー賞の特集を見ていたら、何だか狼狽えて涙が出始めた。
アメリカはここしばらくの間、お金かければいいんでしょ的なアクション・特撮・大作映画ばかり作っていた。
文化はどこへ行くのか、と思っていたら、政治的危機がほのめかされた途端、突然、暴力について真剣に向き合う映画を作り始めた。それらは、身の丈の人間が政治や経済の産み落とす突然の不条理にこづき回されるという現実感のある映画だ。
そういういくつかの映画のフラッシュを見ていたら、私の中から制御しきれないほどの怒りがふつふつと湧いて出てきてしまい、苦しくて涙が出た。
じつは、私は巨大な怒りと共に生きていて、いつもそれがほとばしるのを制御している。それをそのまま出すことを好まない。恐れていると言えばそうだが、出してはいけないということを知っている。
出してはいけない。
出すとすれば、ちゃんと対価を支払うセラピストの前でだけだ。
私は、誰かが傷つくのを好まない。
私自身が傷ついていれば、その痛手の取り返しのつかなさを身をもって知っているからだとも言える。
そして私には、結構なパワーがある。
本気で攻撃したら、悲惨なことになる。
人間は、失意でも死ぬのだ。
あるいは、愛しすぎても、奉仕しすぎても死ぬのだ。
それを知っているから私は、ときどきひとりで自分の怒りを涙に変え、少しずつ解き放つしかないと考えている。
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