このまま流れてゆくために

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 宇宙物理学をやっている学者さんがいて、その人の話によると、空から月が無くなったり、地球が温暖化したりしても、さしたる問題ではないのだそうだ。
月が無くなると、地球は地軸の角度が変わるから、天変地異が大規模に起きる。つまり、人類にとっては、月がなくなるというのは運命的な大問題だ。だから物理学者氏が「問題ではない」というその中味は、「わざわざ、物理学的に考慮するほどのスケールではない」ということだと思うけど。
 このように、「問題」というものは、傍から見るときと、渦中にいるときでは、まったく見え方、感じ方が違う。家族や、会社や、ご近所なんかで揉めるのはだいたい、各人の立場や好みで、何を大切にするかの観点が異なることが原因なんだろう。ご本人にとっては大問題。しかし、他人から見るとつまらないこだわり...。
 では、宇宙を見るがごとく、何に関しても大局的に、大きな心でいると宜しいかというと、これがまた違うのである。「良い天気だなぁ」と空ばかり見ていると店が潰れたり、路頭に迷ったりはする。
   そのあたりの加減が難しい。
 でも、ちょうど良く生きている人はいない。
 誰の目から見るかで人は変わる。家庭の中でめちゃくちゃ迷惑な親父が、会社では、「あ、いたの」みたいな存在感の薄い人である場合も多い。口うるさいことこの上ない母親が、友人内では世話好きな優しい女性だったりもする。
 人の在り方は、一定せず、全体的にほとんどよく分からない。

 誰かの目を気にするのは、その誰かに好かれたいためだろうか。
 それとも、私たちには、誰の目であっても、幾分気にする癖だけがあるのだろうか。
 もし、誰かに気に入られるために、不本意なことをしてみたとして、しかしそれがあまりにつらいときは、どうすればいいのだろうか。
 自分の自然を生きることと、誰かから好かれることが両立しないとき。

   人の欠点ばかりあげつらう人がいる。
 意図しないままにせよ、悪いところ探しする癖から抜け出られない人がいる。
 時には、自分の判断で人を糾弾できると思いこんでいる人がいる。
 無防備に、そういう人たちに出会って、痛い思いをさせられる。

 私たちは自分風に生きてみて、もしそれに対して何か言われたら、一度深呼吸し、ゆっくり相手を観察し、何が起こったのかを考えればいい。
 その小言は、本当に言っているその人にとって大変な迷惑なのかどうか。
 もし、小言を言うのが、その人の精神衛生のためだとしたら、そんなことにはだれひとり協力しなくていい様な気がする。
 それが甘えであることを、分かって言っていることが伝わるときは別だけれど。 

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このページは、kyokotadaが2008年11月18日 21:42に書いたブログ記事です。

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