本能になりたいのだ

user-pic
0
 私は理屈っぽい。
 なぜかというと、理屈の通らない人を説得しようとしてきたから。
 いや、私を分かってくれてない相手でも、理屈でなら分かってもらえると思ったから。
 うん、こちらが正しい。

 音楽もアイディアも、私の得意とすることは形では見えない。
 そして、生まれてしまえば、何の努力もなく、自然に以前から存在したかのように感じられてしまうものだ。
 私が話したことに感心していた人が、次に私に会ったとき、それが自分の考えででもあるかのように私に教えてくれることがある。
 あれま。
 しかしここでめげてはいけない。
 そうであるなら反省して、人が簡単に言葉ではまとめられないようなこと、 つまりもっと根源的で、パラダイムの次元に降りて考えたことを語らなくてはならないのだ。
 「何か素晴らしいことを聞いた気がするが、自分が話そうとするとまとまらない」
 そういう内容を持つ話題こそが、本当に価値あるものだ。

 ネットやメールという瞬時にあちこちへ飛べる機能があるために、私たちは自我が肥大しているそうだ。
 調べたり、連絡したり、会えるはずのない人たちとバーチャルに出会ったり。
 本来は、自分の生活の中で懸命に努力して、そのための時間を作り、機会を作り、資金を作りしてきたことが、お手軽に手に入る。
 それで、ものすごくよく色々なことを知っている気になっているが、いざ、何かをまっさらから始めようとすると、手足すらまともに動かないことに驚く。

 つい20年前まで、自分が出向いて確かめなければ仕様がなかったことが、ネット上である程度できるようになっている。しかし、web上の情報は現物ではない。だから、体感するのではなく、そこにある情報から色々なことを読み取るのだ。
 それは、リテラシーの発達した形と言えなくもないが、websiteのページ構成やデザインやテキストの内容やリンクの貼り方から、提供者や主催者の人物像を読み取って、その対象の生の外観や人ではない、webに表れた内面の偏りみたいなものを、当人がどのように見せたいのかという意図のようなものを読み取る、というようなアクロバティックな受動形態に則っている。

 かつては姿形を見、幾たびか話をした後に感じ取っていたはずの内面性が、web上では最初から丸出しである。しかも無防備に。  その無防備さを、私は今でも怖れている。
 というか、大変居心地が悪い。
 それで、ネット上では生理的な許容範囲の、一方的な発信ばかりという事にしているのだ。

   お手軽に手に入れた情報を元手にして動かざるを得ない現実があるなら、そのことで得た時間を引き算して、何もしない時間に足し算してやらねばならない。でないと、私は、大いに勘違いして、本能がすり切れてしまうような生き方をしてしまいそうだ。 

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://tadakyo.web5.jp/mt/mt-tb.cgi/112

コメントする

このブログ記事について

このページは、kyokotadaが2008年11月18日 21:42に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「このまま流れてゆくために」です。

次のブログ記事は「最近の仕事と音楽のこと」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。