最近の仕事と音楽のこと

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 時々、「わたし、本当に音楽が好きなんだろうか」と思うことがある。
 わたしは、普段、あまり音楽を聴かない。
 聴くときは、ぜひ聴きたいと思うものを短時間だけ。

 みんな、仕事をしながらBGMを流している。
 町へ出ると、色々な店でも音楽が流れている。

 わたしは、ほとんどBGMを聴くことができない。
 音楽を流すと、それに全神経が行ってしまう。嫌いなものなら、ずっと不快で、好きなものなら聴き入ってしまう。時には、気がそれて、人と話をするのすらままならない。ご飯を食べる時も、かかっている音楽が気になる。もしも、以前その店に行ったときと同じものが流れていたりすると、ちょっとがっかりする。クラシックの名曲など、何となく雰囲気作りとして流しているのかも知れないが、どれも曲名が分かるので、「また同じものということは...、セレクトしてないのだ」と落胆してしまう。

   本当の音楽は、そこに演奏する人がいて、聴く人は、わざわざ聴こうとするものだと思っている。
 王侯貴族は、傍らに演奏する楽団をはべらせて食事などしたらしいが、わたしは、いちいち演奏内容が気になるので、それはいらない。
 音楽を聴くのなら、演奏する人が音楽について何かを考えて、それを基に何かをしようとし、時間をかけて創り出し、決然と演奏しているところを見たい。
 わたしには、音楽は、告白だ。

 日常、音楽のパフォーマンスと、ライター仕事がいつも錯綜している。
 ライター仕事といっても、大半が音楽についてなので、その間、音楽からまったく離れているわけではないが、主題は同じでも、体や心の使い方はずいぶん違う。
 書いている時は「物書き業の方が好きだわ」と思い、歌ってみると「いやいや歌うことの方が好きだわ」と思う。
 長い人生の間には、逆の感じ方の時もあった。
 書いていると歌いたくなり、歌っていると書きたくなる。 
 今は、その頃と比べると落ち着いている。
 なにかひとつに専念しないのは、良くない性分だ、と思わなくなったらしい。
 何しろ、作曲や演奏をしながら原稿に追われるという業態で日本中、時には世界を駆け回る音楽家と知り合う機会も多くなった。
 忙しい人は、普通の感覚からは想像できないほど忙しい。
 芸術家なんて呼び名は素晴らしいが、とりあえず色々なことをこなさないと凌いで行けない業界ではある。

 創作の現場に立ち会うと、「過剰」が作品や価値を生むのだ、ということが分かって来る。
 創作する間、寝ない、食べない、休まないで興奮状態を続けられる人が多い。
 一般的な仕事と比較すると、ひとまとまりのくくりが時間的に長いのだ。
 そのようにしながら、日々こつこつ続けていることが、ある日まとまってみると、その内容と量の豊かさに感動する。
 創作の仕事は、疲れはするが、楽しいのでつい休まないことになってしまう。
 振り返ると、月に1日しか休まない、なんていうこともしばしばある。
 周囲から「休め、休め」といわれる。体が心配だ、と。
 確かに、これだけ仕事をすれば、疲れる。けれども、この仕事はそういう風にやる職種だ。体力と気力の続く限り、過剰にやり続ける。やりつづけられることが「才能」のひとつなのではないか。世間が「才能」とか「天才」と呼ぶものは、過剰を続ける体力なのだ、と思うほどだ。
 時には、わたしなどには、全く届かないほどの過剰さに出会う。
 感嘆する。その人は、人類の宝だ。
 最近、数人の奇才に出会って、ますますその感を強くしている。

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このページは、kyokotadaが2008年12月 3日 21:43に書いたブログ記事です。

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