何かをしなくてはならないということはない

user-pic
0
大仕事を終えると、「荷下ろし鬱病」というような症状が起きる。
高速で動いていた機械を急停止するのが良くないように、人の心も、急停止すると色々な弊害がある。
いつも、大仕事を終えた後がつらい。
仕事をしている間も、無論、別の意味でしんどいのだが、祭りの後の虚しさはまた別のものだ。

「ぼくたちにとっては、いまや生産することより、分解することのほうが大切になっているのではないだろうか。(中沢新一「アース・ダイバー」)」

そんなときに、こんな一節に出会う。
生産は、ある意味、取り組みやすい事柄である。
作り上げるには労力が要るけれど、ある種の興奮状態でもあり、また、それを使命と感じて動くのは人間の好む感情だ。

作り上げたものを、上手に分解して無に帰すのが難しい。
作りだしたものを無に帰す仕事は、興奮してはできない。
そこには、断念と諦観があり、幾分の感謝がある。

わたしは、これからどうしたいのか。
そう考えていたときに、こんな一節に出会った。
分解して無に帰すこと。
これがわたしのやりたいことかもしれない。
無駄なものを持ちすぎている。
それを始末するのは、自分でありたい。
身仕舞い、潔く、身軽にならなくては。 

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://tadakyo.web5.jp/mt/mt-tb.cgi/115

コメントする

このブログ記事について

このページは、kyokotadaが2008年12月22日 21:45に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「今日は湯豆腐にしよう」です。

次のブログ記事は「何か言いたい人々」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。