何か言いたい人々

user-pic
0
 仕事の打ち合わせで出会う人や、忘年会で出会う人が、すごく語るのだ。
「今ここで、どーしても言っておきたいことがあるっ!」
 という風情である。
 少し前までは、こういう情景があまりなかった気がする。何かについて熱く語るなんておかしい、といわんばかりに、みんな、どことなく余裕こいてた感じすらあった。
 それで、切羽詰まっている私は自分が恥ずかしく、無理してでも余裕こいてる振りをしてみたり、だった。
 それが、ここに来てみんなの語ること語ること。
 会う人会う人、話が長い。
 そして、何やら世界情勢や世界の文化の趨勢についてなど発言している。
 これは何なのだろう。

 何か言いたい人々というのはどこにでも存在した。
 子どもを遊ばせる公園仲間の母親にも、幼稚園や保育園や学校の保護者会にも、仕事先にも、親戚の中にも、何かについて熱く語りたい人は一定数、居たのだ。
 それらの語りのそれぞれに、何らかの価値はあった。
 若く未熟で、しかも田舎ものの自覚満載だった私は、興奮して語る都会在住の人々にずいぶん勉強させて貰った。
 だが、ある時に、あまり勉強にならない話というものもあることに気がついてきた。必死に聞き耳を立てていた初心者は、いつしか傲慢になり果て、ついに、誰の話もあまり聞きたくないよねー、という時期が長く続いていた。そういう私の気配を察知してか、どの人もあまり語らない、幸運な年月が続いていたのだ。
 なのに、どうしたことなのか。
 最近会う人会う人、みんな、激烈に語ってくれる。

 世界情勢が悪化しているからだろうか。
 それとも、私の脳みそが緩い時期であることを動物的勘によって察知しているのであろうか。
 熱い語りを聞く私は、いい面の皮、という気分である。
 相変わらず、面白いと感ずる話はほとんどない。
 仕方がないので、口直しに本を読む。
 本も、つまらないときは、すぐ寝る。
 気づくと、10時間も寝ていることがある。
 嫁に来て以来、こんなに寝るのは初めてだ。

 これでは、太る一方なため、駅ではエスカレーターを使わず、階段を上ろうと決心した。
 体は本日から、日野原先生、あるいは森光子に師事する予定である。
 心技体、は間違いで、体技心だと、青木プロも言っていた。
 口でなく、まずは階段からである。 

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://tadakyo.web5.jp/mt/mt-tb.cgi/116

コメントする

このブログ記事について

このページは、kyokotadaが2008年12月29日 21:45に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「何かをしなくてはならないということはない」です。

次のブログ記事は「あけましておめでとうございます。」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。