昨年は、ひたひたと世界変化の波が押し寄せた年でした。
私が生まれたとき、すでに世界ナンバーワンだったアメリカの、残念な部分が浮き彫りになりました。
でも、それ以前に、ソ連が崩壊してベルリンの壁が崩れたとき、私は、ちょっとだけ、自分が意味なく左寄りを宜しいと感じており、その根拠は何もない、という事実に気づきました。
その時、左だとか右だとかの思想的刷り込みが、いつどうやって為されたのか、少しだけ考えました。
昨年読んだ本の中で、印象的だったのが「対抗軸」という考え方です。
辻井喬と上野千鶴子両氏の対談「ポスト消費社会のゆくえ」(文春文庫)という新書の中です。
社会主義は、人間の生き方にはフィットしなかったけれど、対抗軸として資本主義社会に一定の歯止めをかけていた、ということを、私はほとんど意識していませんでした。
そして、幼児を育てながら、自分が左寄りであることの根拠に思いを致していた頃のことを思い出したのです。
世界観ということで言えば、大学のゼミでは「ユートピア思想」というものをやりました。ユートピアは可能か、あるいは有効か、という問いです。
その流れで、精神医学に足を踏み入れ、言語学や思想史の端緒に触れたのです。ただし、未熟すぎた故、全く学問をする基礎がありませんでした。
そのやり残し感を引きずって生きながら、ある日、臨床心理学の研究所の門を叩くことになりました。大学院や実践の場で臨床を学ぶ人々に混じって、自分の中に考え方の芯を求める学びに専心しました。
ここでの学びは、10年以上経つ今でも続いています。
さて、これから、何をやるべきか、という現在です。
50年以上、人生と格闘して得たことは、自分には結婚や子育てがもっとも重大な事項であった、ということ。
大変な勢いで仕事をしてきましたが、それはやはり人として生きる上での手段だ、と思えます。
かといって、毎日夫や子どもたちと濃密に付き合っているかと言えばそんなことはなく、どちらかといえば、仕事先の関係者と過ごす時間が長い日々です。
仕事は、子どもの頃に夢見たことが嘘のように全て実現でき、これ以上を望むとすればさらに勉強しなくてはなりません。
その勉強を始めるのが宜しいのか、それとも、自分にご苦労さんと言いつつ、料理や寛ぎに浸るのが宜しいのか、今年の前半はそのことについて自分と対話しようと思っています。
1日12時間、休みは月に1回というような、アホらしい働き方は、これからはしないだろうと思います。というか、できなくなってしまいました。それにも、はっきりと理由があるのです。
年初に掲げるテーマの善し悪しの判断はまたいずれということにして、とにかく、気持ちに少し余裕ができました。
自分のために生きる、ということを、僅かばかりですが、理解できるようになったようなのです。
私が生まれたとき、すでに世界ナンバーワンだったアメリカの、残念な部分が浮き彫りになりました。
でも、それ以前に、ソ連が崩壊してベルリンの壁が崩れたとき、私は、ちょっとだけ、自分が意味なく左寄りを宜しいと感じており、その根拠は何もない、という事実に気づきました。
その時、左だとか右だとかの思想的刷り込みが、いつどうやって為されたのか、少しだけ考えました。
昨年読んだ本の中で、印象的だったのが「対抗軸」という考え方です。
辻井喬と上野千鶴子両氏の対談「ポスト消費社会のゆくえ」(文春文庫)という新書の中です。
社会主義は、人間の生き方にはフィットしなかったけれど、対抗軸として資本主義社会に一定の歯止めをかけていた、ということを、私はほとんど意識していませんでした。
そして、幼児を育てながら、自分が左寄りであることの根拠に思いを致していた頃のことを思い出したのです。
世界観ということで言えば、大学のゼミでは「ユートピア思想」というものをやりました。ユートピアは可能か、あるいは有効か、という問いです。
その流れで、精神医学に足を踏み入れ、言語学や思想史の端緒に触れたのです。ただし、未熟すぎた故、全く学問をする基礎がありませんでした。
そのやり残し感を引きずって生きながら、ある日、臨床心理学の研究所の門を叩くことになりました。大学院や実践の場で臨床を学ぶ人々に混じって、自分の中に考え方の芯を求める学びに専心しました。
ここでの学びは、10年以上経つ今でも続いています。
さて、これから、何をやるべきか、という現在です。
50年以上、人生と格闘して得たことは、自分には結婚や子育てがもっとも重大な事項であった、ということ。
大変な勢いで仕事をしてきましたが、それはやはり人として生きる上での手段だ、と思えます。
かといって、毎日夫や子どもたちと濃密に付き合っているかと言えばそんなことはなく、どちらかといえば、仕事先の関係者と過ごす時間が長い日々です。
仕事は、子どもの頃に夢見たことが嘘のように全て実現でき、これ以上を望むとすればさらに勉強しなくてはなりません。
その勉強を始めるのが宜しいのか、それとも、自分にご苦労さんと言いつつ、料理や寛ぎに浸るのが宜しいのか、今年の前半はそのことについて自分と対話しようと思っています。
1日12時間、休みは月に1回というような、アホらしい働き方は、これからはしないだろうと思います。というか、できなくなってしまいました。それにも、はっきりと理由があるのです。
年初に掲げるテーマの善し悪しの判断はまたいずれということにして、とにかく、気持ちに少し余裕ができました。
自分のために生きる、ということを、僅かばかりですが、理解できるようになったようなのです。
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