宮沢賢治のシンクロニシティ

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 渋谷に出た日は、ブック・ファーストか、HMVに寄ることにしている。その日は、ブック・ファーストの方で、吉本隆明と中沢新一とガルシア・マルケスなどの未読のものを買い、これらを週末の読書に充てることとした。
 その帰りに、Y字路の件があり、いよいよ私も現実界からお役ご免、形而上に浮遊せよとのお達しと思っていたところに、さらなる共時が起きた。

 私の夫は、岩手県の花巻市出身である。言わずもがなだが、宮沢賢治の故郷である。両親健在の頃、子どもたちをつれて花巻市に帰省の折は、必ず「賢治記念館」に寄った。
 セロ弾きのゴーシュのチェロ、様々な童話のスライドショー、天体観測の部屋などを楽しんだ後、広いロビーから雑木林の木々を眺める。
 夫は、賢治に寄せるCDを制作して、記念館に置いていただいている。そして、夏休みに行われる、「賢治祭」にも何度か出演した。
 花巻市には、今も夫の実家があるのだ。

 中沢新一は、いつからか、多摩美術大学の中に「芸術人類学研究所」を開いて、そこの所長になっていた。私は、その存在がとてもとても気になって、内容もわからぬまま、ついに会員となっている。
 一体、こんな素敵なアイディアを思いついたのはどこの誰なのだろうか。
 多摩美が思いついて中沢氏を招聘したとすれば、その秀逸なアイディアの主をぜひとも知りたいものだ、と思っていた。
 私の通う、池尻大橋の「PAS心理教育研究所」もとても素敵な研究所だけれど、八王子の「芸術人類学研究所」も、すごい。

   その謎が、今回購入した「ミクロコスモス �」の巻末にあった。その研究所は、中沢氏の発案からたった5分で開設が決定した場所だった。
 そんな絵に描いた餅のような話が実現するわけがない、と思いながら、しかし何気なく夢を語ったら、すぐにOKが出た、というのだ。
 それは、私のスタジオのでき方とも似ている。
 私も、軽い気持ちで、レコーディング設備を付けて貰えるなら、会社に参加しても良いよ、と言ったのだった。

 業績を着々と積み上げてきたと感じられる中沢新一氏は、自らの人生を挫折の連続といい、そのあまりのついてなさに同情した神様が、その研究所をもたらしてくれたのではないか、と書いている。
 業績だけ見れば、私もそう見えるらしいが、同様に挫折の連続だった。挫折の中の一筋の光明だけが、わたしを諦めさせなかった。その光明は「人類に必要な美しさ」を求めることだった。
 自らは挫折多く、割を食ってばかりいる、いただけない人生が、他人から見ると成功に上り詰めた、ツキに恵まれた人生と映るらしいことも理解した。
 中沢新一が敬愛する偉大なる思想家たちも、おしなべて挫折の人生を歩んでいる、と言う。ゾロアスターやイエス・キリスト。唯一、その一人にあげている日本人が、宮沢賢治である。
 その文に触れた時に、また、私の中でシンクロニシティが生まれる。
 田舎の家をどう使うかが、朧気なヴィジョンとなって立ち上がる。その家にフィットする人々と、物語。

 花巻は、遠野にも近い。そこには、カッパやケサランパサランやおしらさまがいる。
 ずっしりと重たい空気。縄文から続く農耕の神様のいる場所。
 私は、狩りをする蝦夷の地の、熊に跨る負けん気の人物で、ずっしりと土を耕す人々とは相容れないが、いずれにしても縄文の、土に馴染んだ生き物である。心の底に降りてゆけば、黄泉の国ならぬ、共時の泉に突き当たるのだ。 

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このページは、kyokotadaが2009年1月20日 19:25に書いたブログ記事です。

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