家の食卓の一角に、読みかけの本が積み重なる場所がある。
最近、「本を読まねば」とやっと気がついたらしい息子が、積み上がった5冊ばかりを指さして「一度にそんなに読んでるのか」と呆れた風である。
改めてのぞき見ると、ゾーヴァの絵本、島田雅彦著の小説の書き方、宮台の社会分析新書、営業マン向け実用書、料理の本など雑多に積み上がっている。
息子は、「宮台は自分の学校の先生である、たびたび勉強系サークルが講演会などを行う」と言ってやや嬉しそうであった。
母親がどのような読書をし、それによって何を考え、学んでいるかと探るのは子どもにとってどんな感じなのだろうか。
私の母は、女性週刊誌しか読まない人であったため、彼女の精神性について予測するのは大変に困難だった。いわば、根拠がないのであった。場当たり、感覚的、不連続。つまりアナーキストである。
では、私は何に依って立っているだろうか。
青春期は芸術至上主義であった。
その後、女性学や精神医学をやり人類学をかじり、子育ての実践の中で人間という生物の自然について考察し、だが、人間の牡についてはひどく勘違いをしたまま現在に至る。
仕事面では、雑学の塊になる他ないライター仕事の中で、結局最も好きな音楽分野に的を絞り、中でも音楽史に足場を作っている。
自分がプレイヤーでもあることを活かして、これからは、ボイストレーニングの方法論の視覚化、楽譜、録音などによる音楽の記録方法について新しく発案などをしたいと思っている。
さて、そのような仕事をしている私の仕事場は乱雑である。
日々、長時間仕事場におり、さらにそこからライブに出かけることもあるので、そのための衣裳や着替えが置いてある。姿見に化粧道具、アクセサリー。
書き仕事用に、書籍、楽譜、プリントアウトした紙資料、および音源関係がどっさり。CDコンポ、パソコン、プリンター、電話機、ギター、なぜか置かれている夫のコントラバス2台、アレンジや楽譜を書くのに必要なヤマハのグランド型エレピCPとアンプ、借りている二胡、こわれたヴァイオリン...という具合である。
仕事机は、食卓テーブル2台を並べたものだが、その上もまた、この上なく散らかっている。本の山、資料の山、筆記具、名刺入れ、写真立て、化粧品に薬品、さまざまなリモコン類など。
いつも「片付けなくては」と強迫的に思い、いくらか片付けるのだが、数日経つとさらに乱雑ぶりが増す。
仕事部屋が乱雑になるのは、仕事に対処しているから、と思う他ない。あれこれの資料を出して、読み、聴きしながらまた色々発案するのである。
資料というものは不思議なもので、「長いこと取っておいたが、さすがにもういい加減要らないだろう」と決意して捨てると間もなく、必ずと言っていいほど「あれさえ取ってあれば」という事態が起こったりするものである。
それがあることが気になるので捨てるのだが、実は捨てようかなと考えるのが予感なのかも。
何にしても、仕事部屋は乱雑である。
何とかしたいが、昨日テレビで見た女性の学者の研究室も乱雑であったので、もうこれで良いと思うことにする。
自然発生的に乱雑が形成され、それが一定のエントロピーで居住性と活気を与えているのである。
だからこれでいいのだ。
と、思うことにした!!
最近、「本を読まねば」とやっと気がついたらしい息子が、積み上がった5冊ばかりを指さして「一度にそんなに読んでるのか」と呆れた風である。
改めてのぞき見ると、ゾーヴァの絵本、島田雅彦著の小説の書き方、宮台の社会分析新書、営業マン向け実用書、料理の本など雑多に積み上がっている。
息子は、「宮台は自分の学校の先生である、たびたび勉強系サークルが講演会などを行う」と言ってやや嬉しそうであった。
母親がどのような読書をし、それによって何を考え、学んでいるかと探るのは子どもにとってどんな感じなのだろうか。
私の母は、女性週刊誌しか読まない人であったため、彼女の精神性について予測するのは大変に困難だった。いわば、根拠がないのであった。場当たり、感覚的、不連続。つまりアナーキストである。
では、私は何に依って立っているだろうか。
青春期は芸術至上主義であった。
その後、女性学や精神医学をやり人類学をかじり、子育ての実践の中で人間という生物の自然について考察し、だが、人間の牡についてはひどく勘違いをしたまま現在に至る。
仕事面では、雑学の塊になる他ないライター仕事の中で、結局最も好きな音楽分野に的を絞り、中でも音楽史に足場を作っている。
自分がプレイヤーでもあることを活かして、これからは、ボイストレーニングの方法論の視覚化、楽譜、録音などによる音楽の記録方法について新しく発案などをしたいと思っている。
さて、そのような仕事をしている私の仕事場は乱雑である。
日々、長時間仕事場におり、さらにそこからライブに出かけることもあるので、そのための衣裳や着替えが置いてある。姿見に化粧道具、アクセサリー。
書き仕事用に、書籍、楽譜、プリントアウトした紙資料、および音源関係がどっさり。CDコンポ、パソコン、プリンター、電話機、ギター、なぜか置かれている夫のコントラバス2台、アレンジや楽譜を書くのに必要なヤマハのグランド型エレピCPとアンプ、借りている二胡、こわれたヴァイオリン...という具合である。
仕事机は、食卓テーブル2台を並べたものだが、その上もまた、この上なく散らかっている。本の山、資料の山、筆記具、名刺入れ、写真立て、化粧品に薬品、さまざまなリモコン類など。
いつも「片付けなくては」と強迫的に思い、いくらか片付けるのだが、数日経つとさらに乱雑ぶりが増す。
仕事部屋が乱雑になるのは、仕事に対処しているから、と思う他ない。あれこれの資料を出して、読み、聴きしながらまた色々発案するのである。
資料というものは不思議なもので、「長いこと取っておいたが、さすがにもういい加減要らないだろう」と決意して捨てると間もなく、必ずと言っていいほど「あれさえ取ってあれば」という事態が起こったりするものである。
それがあることが気になるので捨てるのだが、実は捨てようかなと考えるのが予感なのかも。
何にしても、仕事部屋は乱雑である。
何とかしたいが、昨日テレビで見た女性の学者の研究室も乱雑であったので、もうこれで良いと思うことにする。
自然発生的に乱雑が形成され、それが一定のエントロピーで居住性と活気を与えているのである。
だからこれでいいのだ。
と、思うことにした!!
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