昨年から地元で音楽祭を始めた。
地元、西東京市は、音楽の活動が今ひとつよく見えない場所だ。
クラシックもポピュラーも、プロとして活動する人が多く住んでいるようなのだが、これといった活動の中心、拠点がない。
スタジオをオープンして間もない頃のある日、もとレコード会社勤務という2人の男性が現れて、「音楽祭をやりたい」と仰るのであった。
ひとりは、ソニー・レコードのアーティストからプロデューサーになった木村氏、そしてもうひとりはBMGジャパンの営業職から突然、西東京市会議員になった佐藤氏である。
両氏とも、プロの世界で生きてきただけあって、音楽祭というと既存のフェスのようなものという固定観念がありそうにお見受けした。つまり、事業的な音楽祭である。
しかし、それは私たちの手には負えないだろう、と思えた。
さまざまな形で繰り広げられるジャズ・ストリートなどは、場所を変えても同じ顔ぶれのミュージシャンが、仕事として演奏するのを聴く、という形式。普段のジャズのライブ・ハウスでの演奏が、その日だけ一カ所に集まった、あるいは場所を変えた、というだけのものも多い。
あるいは、ある程度の知名度を持つアーティストが何組かブッキングされて、広い会場で「フェス」と銘打たれたイベントをやる。
いずれにしても、地元民はプロの演奏を見る、聴くのみの参加となる。
それはちょっと違うかも、と思った。
しかし、よく話をするうち、このお2人の願望は商業主義、つまり儲け事業という目的からは遠い、もっぱら地域の人々と触れ合いたい、純粋に、この地域の音楽活動を盛り上げたいというものであることが分かってきた。
ならば一緒にできるかも知れない。
音楽を愛するたくさんの人々と連携するイベントを。
内容について、そしてシステムについて、考え抜いて立ち上がったのが「西東京音楽祭」である。市の名前を冠とする音楽祭が、まだ無いのを良いことに先手必勝で唾をつけてしまった。
出演は公募。参加費は安く。主催側ができることは手間を惜しまずやる。出演者に楽しんでいただく。見る人々にも喜んでいただく。
これが底辺を流れるポリシーである。
それにしても、この内容では協賛を募らないと足が出てしまう。どうしたものかと思っていたとき、大塚製薬の広告を担当されていた電通OBの方が、声をかけて下さった。お陰で、大口のスポンサーを得ることができた。パンフレットの裏表紙一面に「ポカリスエット」の広告が載り、出演者に現物支給もできた。
そして地元のたくさんの企業、業者の皆様が、見も知らない私たちの、それこそ雲を掴むような話に頷いて、協賛して下さった。何と有り難い。
このような成り行きで、出演40組に対し、70組以上の応募を頂き、新生の音楽祭がスタートしたのだ。
以下は、昨年とほとんど同じ内容の、今年、第2回目のパンフレットの挨拶文である。実行委員4人という、少ない人数で良くやっていると自画自賛。来年も無事に開催できることを願っている。
第2回「西東京音楽祭」開催に向けて
それは見切り発車から始まった!
今から2年前のある日、木村聡志は音楽関係の仕事をしている(た)人々を誘ってこう言った。「私は、この町でどうしても音楽祭をやりたいのだ」。集められたのは中年数人であったが、返事は「いいよ!」であった。その日からゆるい議論が続けられ、とりあえず会場だけは押さえようと決まった。勇み足で会場を押さえた日から、全員、もう逃げられないと覚悟。お金など全く無いにもかかわらず、信用金庫に口座まで作り、実行委員会を立ち上げたのだった。始めは「応募してくれるバンドが少なかったら自分たちが出ようね」、「協賛なんか取れそうもないから持ち出し覚悟だね」の無謀すぎる船出だった。
あらびっくり、何と、異常な盛り上がりが、「第2回目」の今年もまた!!
その後は、皆様がご存じのとおり。告知チラシをバラ撒き、協賛集めに歩き回り、市の後援をお願いし、と、まさに死闘の連続。中年たちは個々、本業も大変に忙しいため、倒れそうになりながらも頑張った。お陰様で第1回目は予想を遙かに超える大盛況。なんかイケそうじゃん、と調子に乗って第2回目、堂々開催致します!!
今年もたくさんの皆様からご後援、ご協賛を頂きました。世界不況の真っ只中にもかかわらず、なんと広告が増えております(涙・涙)。
皆さんありがとう。またしても感謝、感涙が止まりません。
今日は、みんな爆発して下さい!
そして、来年、再来年へと音楽祭を盛り上げて下さい!!
第2回目も、何が何でも、絶対に成功させようねっ!!!
できれば「西東京音楽祭」を100年続けるんだ~~!!!
地元、西東京市は、音楽の活動が今ひとつよく見えない場所だ。
クラシックもポピュラーも、プロとして活動する人が多く住んでいるようなのだが、これといった活動の中心、拠点がない。
スタジオをオープンして間もない頃のある日、もとレコード会社勤務という2人の男性が現れて、「音楽祭をやりたい」と仰るのであった。
ひとりは、ソニー・レコードのアーティストからプロデューサーになった木村氏、そしてもうひとりはBMGジャパンの営業職から突然、西東京市会議員になった佐藤氏である。
両氏とも、プロの世界で生きてきただけあって、音楽祭というと既存のフェスのようなものという固定観念がありそうにお見受けした。つまり、事業的な音楽祭である。
しかし、それは私たちの手には負えないだろう、と思えた。
さまざまな形で繰り広げられるジャズ・ストリートなどは、場所を変えても同じ顔ぶれのミュージシャンが、仕事として演奏するのを聴く、という形式。普段のジャズのライブ・ハウスでの演奏が、その日だけ一カ所に集まった、あるいは場所を変えた、というだけのものも多い。
あるいは、ある程度の知名度を持つアーティストが何組かブッキングされて、広い会場で「フェス」と銘打たれたイベントをやる。
いずれにしても、地元民はプロの演奏を見る、聴くのみの参加となる。
それはちょっと違うかも、と思った。
しかし、よく話をするうち、このお2人の願望は商業主義、つまり儲け事業という目的からは遠い、もっぱら地域の人々と触れ合いたい、純粋に、この地域の音楽活動を盛り上げたいというものであることが分かってきた。
ならば一緒にできるかも知れない。
音楽を愛するたくさんの人々と連携するイベントを。
内容について、そしてシステムについて、考え抜いて立ち上がったのが「西東京音楽祭」である。市の名前を冠とする音楽祭が、まだ無いのを良いことに先手必勝で唾をつけてしまった。
出演は公募。参加費は安く。主催側ができることは手間を惜しまずやる。出演者に楽しんでいただく。見る人々にも喜んでいただく。
これが底辺を流れるポリシーである。
それにしても、この内容では協賛を募らないと足が出てしまう。どうしたものかと思っていたとき、大塚製薬の広告を担当されていた電通OBの方が、声をかけて下さった。お陰で、大口のスポンサーを得ることができた。パンフレットの裏表紙一面に「ポカリスエット」の広告が載り、出演者に現物支給もできた。
そして地元のたくさんの企業、業者の皆様が、見も知らない私たちの、それこそ雲を掴むような話に頷いて、協賛して下さった。何と有り難い。
このような成り行きで、出演40組に対し、70組以上の応募を頂き、新生の音楽祭がスタートしたのだ。
以下は、昨年とほとんど同じ内容の、今年、第2回目のパンフレットの挨拶文である。実行委員4人という、少ない人数で良くやっていると自画自賛。来年も無事に開催できることを願っている。
第2回「西東京音楽祭」開催に向けて
それは見切り発車から始まった!
今から2年前のある日、木村聡志は音楽関係の仕事をしている(た)人々を誘ってこう言った。「私は、この町でどうしても音楽祭をやりたいのだ」。集められたのは中年数人であったが、返事は「いいよ!」であった。その日からゆるい議論が続けられ、とりあえず会場だけは押さえようと決まった。勇み足で会場を押さえた日から、全員、もう逃げられないと覚悟。お金など全く無いにもかかわらず、信用金庫に口座まで作り、実行委員会を立ち上げたのだった。始めは「応募してくれるバンドが少なかったら自分たちが出ようね」、「協賛なんか取れそうもないから持ち出し覚悟だね」の無謀すぎる船出だった。
あらびっくり、何と、異常な盛り上がりが、「第2回目」の今年もまた!!
その後は、皆様がご存じのとおり。告知チラシをバラ撒き、協賛集めに歩き回り、市の後援をお願いし、と、まさに死闘の連続。中年たちは個々、本業も大変に忙しいため、倒れそうになりながらも頑張った。お陰様で第1回目は予想を遙かに超える大盛況。なんかイケそうじゃん、と調子に乗って第2回目、堂々開催致します!!
今年もたくさんの皆様からご後援、ご協賛を頂きました。世界不況の真っ只中にもかかわらず、なんと広告が増えております(涙・涙)。
皆さんありがとう。またしても感謝、感涙が止まりません。
今日は、みんな爆発して下さい!
そして、来年、再来年へと音楽祭を盛り上げて下さい!!
第2回目も、何が何でも、絶対に成功させようねっ!!!
できれば「西東京音楽祭」を100年続けるんだ~~!!!
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