音楽を聴く耳

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 良い音楽と感じるものがこの世にあるとしたら、それは絶対的なものか、それとも相対的なものだろうか。
 日本の聴衆は貪欲で、色々な音楽を、それこそ出自由来関係なく吸収してしまう。この狭い国土の中で、地球上で鳴る音楽のほとんど全てが鳴ったかもしれない。アフリカの果ての民族音楽だって、よぼよぼの長老を招いてご披露してしまうお国柄だ。

 たとえば、ゴスペルを歌いたい、という女性の一団があり、宗教の歌であるにも拘わらず、改宗はしないまま宗教的な衣裳まで着込んで「ジーザス、ジーザス」と叫ぶ。由来や意味が分かっていると、尻込みするのだが、そこは知らぬが仏、音楽は国境を越え、信仰をも不問とする。
 多くの人が、自分にはこの音楽が合うはずというものに出会い、触発されて選択する。だから選ぶ音楽とその人となりには、なるほどと頷く共振が見える。

 どんな種類の音楽であっても、良い音楽とさほどでない音楽がある。言い換えれば、聴いていて気分がよい音楽と、逆にイライラする音楽がある。
 演奏技術にかかわらず、ジャンルにも依らず、何だか分からないが、聴いていて気持ちの良い、つまり好感の持てる演奏と、大変上手いと分かり、奏者に理解力のあることも伝わるのに、いつしかイライラしてくる音楽がある。

 それは一体なぜなのだろう。

 私の大好きな演奏家たちを地元に呼び、近場で一流の音楽を聴いていただきたいという願いを込めたライブを催す。
 たいていのお客様は、私との付き合いで来てくださるのだ。
 そして、後日、何かのテレビ番組でそれらの人々が演奏している姿を見て驚く。テレビに出るような人たちだったのだ、と分かり、その人と至近距離にいたということに感動する。つまり、人の耳は、演奏家に対する付加価値なしに判断できるほど発達してはいない。

 しかし、テレビやレコード・CDの無かった時代はどうだったのだろう。演奏のその場でしか音楽に触れることが叶わなかった時代には、人の耳や音楽を聴く心は、もっともっと敏感だったのではなかろうか。そこで演奏する音楽家の姿、息づかい、表情をともに、音に溶け込ませて感じたに違いない。

 私たちは、歩きながらでも音楽を聴くことが可能な世界に生きている。だが、ひとりの演奏家を深く聴く術を持とうという意欲には、著しく欠けたかも知れない。いつでもどこかに行けば誰かの演奏を聴くことが出来る。選べば、世界中の演奏を間近に観ることもできる。この、「その気になればなんでもできる」という実体のない全能感が、その都度、向かい方を鈍らせる。つい、一期一会でなくなるのだ。

 私の生まれた人口2万人足らずの町には、ホールなんて無かった。ただ、商工会議所の会議室があるだけだ。小学生の時、そこで、北海道大学の民謡研究会の夏休み巡業を観た。歌い踊る学生のパフォーマンスの威力にやられ、何日も興奮が冷めなかった。

 イタリアの山岳地帯で羊飼いをしていた少年が、何ヶ月ぶりに実家に戻る山道で、偶然出会った旅芸人の音楽を聴く。生まれて初めて音楽を聴いた少年は、半狂乱になる。私は、その様子を空想し、その衝撃を想う。
 羊飼いの文盲の少年は、この時、自分の家族の外にも世界があることを知り、学問して学者となり、自分の生い立ちを一冊の本に書いた。「父パードロ・パドローネ」。後に、タビアーニ兄弟が監督して映画となったこの物語で、私は改めて、音楽の力の偉大さを知るのだ。

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このページは、kyokotadaが2009年5月27日 19:00に書いたブログ記事です。

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