「ミノタウロス」は、佐藤亜紀の小説。この作家の作品は、以前から色々読んでいて、どの作品にも深く感心したのだが、感動した作品とすれば「モンティニーの狼男爵」だった。
感心する、と感動する、の差は、私の場合は、読了したときの爽快感に依るようだ。快哉を叫びたいようなカタルシスがあったか否か。
単純だなあ。
「ミノタウロス」は、数人の少年たちが、激動の無政府状態、ロシア革命の真っ直中を、それぞれの短い履歴に則って個性をむき出しに暴れ回り、ギリギリの駆け引きで生存しようとするも叶わず、死んでゆくという物語。
やりきれないような設定である。
壊れた社会の中で「生存」することの切羽詰まり方が、ものすごい描写力で立ち上がる。
次いで、追い詰められる度に、火事場の馬鹿力だけで危機を乗り越えて行きながら、ついには自分の限界を悟り、自分らしいと感じられるシチュエーションの中で死んでいく彼らの在り方。
人間がいれば生きながらえる装置として社会ができ、だがバグった途端、一瞬後には逆の装置として生存を脅かす。
その渦中に生まれれば、脅威を当然のこととして相対し、彗星のように駆け抜けて燃え尽きるみたいに消えてゆく。
その人生は、汚れ腐って腐臭を撒き散らしながら、死人の山を乗り越えて続く。なのに、なぜかとっても美しい。少年たちは、いずれもただの、どうしようもない破落戸(ごろつき)たちなのだが、その人生が、少しの不満も含まない、含む暇すらないことに、神聖さというか清々しさを感じるのだ。
人間は、考える。
ついつい考えすぎるほどだ。
考えるのは宜しいが、下手の考え休むに似たり、と感じることも多い。
何かから手を抜いたり、サボるためにも考えるふりをする輩が多いような...。
考えて、自分なりのこだわりがあるかのように見せかけて、じつは、それすら怠惰の言い訳、身体を使いたくないためのサボりだったりする。
逆に、考える行為が肉体的なときは、感動が湧く。
身体を使ってから考えると、色々良いことがあるのよ。
「ミノタウロス」を読む前に、佐藤亜紀による創作のレクチャーとしてまとめられた「小説のストラテジー」という本を読もうとしていたが、こちらの頭が悪くてついて行けず、何度も手にとっては放っていた。
それが、ミノタウロス読了後に再挑戦したら、嘘のように良く読める。
佐藤亜紀の中にある戦略を存分に反映した作品を読んで、その後だったから、創作に至る運動の道筋を追えた、ということか。
何か、身体を使った後に考える方法と似ている。
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