この頃、長く付き合っている人々、及びその周辺の友人、知人が集うと、一気に家族的雰囲気が生まれる。
たとえば、soba beatと呼んでいる私のユニットのひとつでは、メンバーの家族構成や仕事履歴を良く知り合っているために、昔話から近況まで、あたかも親戚づきあいのように話が通じる。
昨日集ったのは、ピアノの北さん関連の仲間だったが、こちらも、昔からの知り合いである上に共通の知人も多いため、あのときはああだったこうだった、今はこうである、こんな事知ってるか、などなど、面白い話題に事欠かず。
これは、年齢を重ねた功徳だという気がする。
若い頃は、楽しい集いにしようとしても、なかなかそうはいかなかった。各自の仕事や家族の好不調、ライバル意識など、それらのいちいちが、切羽詰まっていて生々しかった。
と言って、現在の皆が仕事や野心から降りているのかといえばそうではなく、至って元気に働いているのだ。かつてとの違いをいえば、各々の「路線」が明確になってもうこれからはそうそう変化しないだろう、という互いの了解が出てきたことだろうか。
本当の家族では、構成員の役割とか個性を受容し会えるか否かが平和共存を左右するが、それが友人知人の間柄についても同じように働くようで、意欲的に何かしたい人、したくない人、きびきびと商売したい人、したくない人など様々な個性が入り混じって互いを容認し、尊重し合いながら仲良く語り合うというのが近年の楽しみ方である。誰も他者の在り方に異議を唱えることはない。病や困窮については、心配はするがそれ以上に干渉することもなく、それはそれで各々の家族の中で解決すべきことだと割り切っている。
家族の中でも、ある時期からこのようにゆとりや隙間のある関係が生まれてくる。それが楽なのは、誰からも圧迫を受けることが無く、それでいて何か事あれば頼りにできそうだ、と感じていられるからだろう。
ひとりひとりが、ある意味で大人になった、と言い換えても良いかも知れない。普通程度に成熟すれば、誰でも人生の一時、互いが在ることの充実を味わうことができるようだ。
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