人は誰でも、何かを純粋に愛し、追求することができる。
対象は様々だとしても、平等にその自由がある。
学問の世界には研究という領域があって、その世界に住む人々にしか理解できない「仮定」とか「証明」とか「理論」などがある。専門用語が満載の学術論文は、専門外の人にはほとんど理解できない。
同じことが、音楽の世界にも存在する。音楽家が「リズム」とか「和声」という時、彼らの頭の中には、膨大で絢爛なサンプルが鳴り響く。しかし、音楽家でない人々にとって、リズムは拍動でしかない。和声は、指摘されないとその存在にも気がつけないものである。
世界をどう観察し、理解してインプットするか。
それが私達ひとりひとりの個性となる。
深くひとつの専門に入り込むと、他の専門家に、あるいは専門分野そのものに対しても、大いなるリスペクトが生まれる。
と同時に、玩ぶ風に取り組んでいる人々への、憎悪に近い軽蔑も生まれる。別に腹なんか立てなくてもいいじゃん、人それぞれでしょ、と自分でも思う。だが、思いがけない時に、こちらの専門についての無理解や無神経な反応にさらされると、我ながら情けないほど傷ついてしまう。
捧げた愛情が貶められるからだろうか。それとも、相手に理解の許容量がない場合、こちらの怒りのやり場が見当たらないからだろうか。
趣味で取り組んでいる人々には、プロとして掘り下げている人々の深さや高みは体感できない。体感できなければ、その事柄に対する感動も理解も生まれようがない。人生に於ける利用の仕方が異なると言っても良い。
ものごとに対する深い理解や俯瞰能力は、ある場所にまで掘り進んだ個人にだけ体感できるものであり、深く広くなるたびに、可視ポイントが膨大な量になる。おまけに、それらの隅々にまで気を行き届かせないと落ち着かなくなる。心配であったり、不安であったり...。好むと好まざるとによらず、一旦そこに至ってしまうと、見えてしまった事柄を整理しハンドリングすることに大層な労力を要する。
深いところがあることを知らない場合は、その労力の所在がそもそも想像の外であるらしい。一般的にはその状態を「脳天気」とか「幼稚」というのだが。
我知らず掘り進んでしまう人とそうでない人とは、どこがどう違うのだろう。
没頭する人と気が散る人とは、どこがどう違うのだろう。
好奇心とか、興味とか、好きな事柄とか。人は何かに没頭し、探求したり学んだりすることに快感を覚える本能があるらしい。最近は、その境地にいられることが幸せなのだという論調が盛んである。
しかし、私にはその境地にいて、たまたま社会にも適応できた人々だけが幸せという言葉を口にできるような気もする。
時には、没頭している驚喜のうちに、生きる術の何もかもを失う場合もある。
それすら幸せのひとつのかたちだと、言えなくもないけれど。
私が趣味で描いている絵を一枚。
趣味の定義は、「身銭を切って楽しむこと」だそうである。
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