クリエイティヴな仕事、とは何だろう。
無から何かを作り出すこと、を指すのだろうか。
「無」なんてあるのだろうか。
音楽、文学、そしてデザインを平均に眺めながら仕事を進める。
それぞれに専門家がいるので、そのコラボレーションを見ながら、自分の中に湧き上がるフィット感や違和感を見ている。
各自の中に、主張やイメージがある。
それが表に出たときに初めて、コラボレーションとして認識される。
全体像を見ながら、調整する。
私の仕事は、CD制作ならばプロデューサーというものなので、この場合は、資金繰りから全体の仕上がりに関しての責任を果たす。こちらはソーシャルな側面。
一方で、ごく私的な作曲、作詞、文章書き、歌う、といった活動がある。
こちらとなると、何かを生み出せるか否かは偶然に負うところが大きい。
出るか出ないか、自分ですら分からないのである。
ただし、良いものが生み出せるか否かは、どれほどたくさんの回数、あるいは時間を それに注いでいるかにかかっている。
たまにしか手をつけないもので、突如として傑作が産み出されると言うことは、万が一にもない。
良いものを作る人は、職人にしても、そればかりしているものだ。
自分を振り返っても、責任者として全体を眺めて調整しながら、常に自分のクリエイト野の側にもフィード・バックしている。当然、逆の流れもある。
時々、自分をつまらなく感じることがあり、そういう場合は、クリエイターを見に出かける。
コンサート、展覧会、講演会、書店、そしてテレビも。
要するに、視点の持ち方、考え方に於ける創造性。
それに加えて、職人的なしつこいばかりの制作態度。
しかしながら、しつこさの果てにある、程良いところで切り上げる潔さ。
それを人生賭けてやってきて、自分を取るに足らない存在でしかないと感じるとしたら、そちらは精神医学的あるいは心理学的問題だと思われる。
つまり、知恵を絞ってやるだけやっても自分が信じられないなんてことは、健康であれば起こりようがないはずなのだ。
作り出している「物」に対する懐疑はあったとしても、自身に対して懐疑するのはほどほどにした方がよい。何かができないとき、それをすることに意味があるか無いかの逡巡をしていたら、それは対象に対する懐疑ではなく、自身に対する懐疑でしかない。
無から何かを作り出すこと、を指すのだろうか。
「無」なんてあるのだろうか。
音楽、文学、そしてデザインを平均に眺めながら仕事を進める。
それぞれに専門家がいるので、そのコラボレーションを見ながら、自分の中に湧き上がるフィット感や違和感を見ている。
各自の中に、主張やイメージがある。
それが表に出たときに初めて、コラボレーションとして認識される。
全体像を見ながら、調整する。
私の仕事は、CD制作ならばプロデューサーというものなので、この場合は、資金繰りから全体の仕上がりに関しての責任を果たす。こちらはソーシャルな側面。
一方で、ごく私的な作曲、作詞、文章書き、歌う、といった活動がある。
こちらとなると、何かを生み出せるか否かは偶然に負うところが大きい。
出るか出ないか、自分ですら分からないのである。
ただし、良いものが生み出せるか否かは、どれほどたくさんの回数、あるいは時間を それに注いでいるかにかかっている。
たまにしか手をつけないもので、突如として傑作が産み出されると言うことは、万が一にもない。
良いものを作る人は、職人にしても、そればかりしているものだ。
自分を振り返っても、責任者として全体を眺めて調整しながら、常に自分のクリエイト野の側にもフィード・バックしている。当然、逆の流れもある。
時々、自分をつまらなく感じることがあり、そういう場合は、クリエイターを見に出かける。
コンサート、展覧会、講演会、書店、そしてテレビも。
要するに、視点の持ち方、考え方に於ける創造性。
それに加えて、職人的なしつこいばかりの制作態度。
しかしながら、しつこさの果てにある、程良いところで切り上げる潔さ。
それを人生賭けてやってきて、自分を取るに足らない存在でしかないと感じるとしたら、そちらは精神医学的あるいは心理学的問題だと思われる。
つまり、知恵を絞ってやるだけやっても自分が信じられないなんてことは、健康であれば起こりようがないはずなのだ。
作り出している「物」に対する懐疑はあったとしても、自身に対して懐疑するのはほどほどにした方がよい。何かができないとき、それをすることに意味があるか無いかの逡巡をしていたら、それは対象に対する懐疑ではなく、自身に対する懐疑でしかない。
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