暑くなってからずっと、節電と身体のためにエアコン無しで寝ていた。
首タオルが湿るほど汗をかいて。
それが、台風の後、突然肌寒いくらい涼しくなって、その2日程の間、体調がひどく悪くなった。
頭痛がして、目の疲れが痛いほどに自覚されて、身体がバラバラ。
各部分が別々に冷えて、痛く、辛い。
初夏から本格的な夏に向かって、徐々に汗をかく身体になって行く。
だから、暑くなり始めから1週間くらい、じっと我慢で汗を出すと、やがて相当暑くても体温調節が上手くできるようになる。
けれど、今回のように一挙に10数度も気温が下がると、身体は強ばって固まってしまう。
こういう体験をすると、日々の身体の使い方や、精進を工夫することは、全く無駄などではなく、機嫌良く生活する上での基本なのだと実感される。
先週の金曜日、伊東豊雄さんの土曜教室番外編、中沢新一先生のお話2回目に出かけた。
今回のお話は、心をラカン的モジュールにした図から始まった。
モジュール中心に位置するメビウス状の部分に存するものと、表面に向かって存するものの、階層的な質の違い。
中心には言語化すらされていない情動そのものがあり、そこから表面に向かうに従って理論化、言語化が推進される、というお話。
中心は、言うなれば芸術的カオスとエネルギーの場だ。
外周に至っては、人間社会のうちでも極端に感情を排したもの、例えば法律文などとなる。
そして、中心から直に出てくるものの代表は音楽なのだそうだ。
中心からダイレクトに出るものの割合が多いほど、芸術としては力がある。
この話を聞いて、これまで長い間考えてきた、様々な演奏スタイルや音楽の捉え方の個人差、好みの差が何によるかについての、解答のひとつだと思えた。
演奏を、中心からダイレクトに出せるようになるまでには、長年にわたる経験が必要だ。
この時の状態は、ちょうど、瞑想が極まる感じに近い。
それは記憶とか思考を伴わず、身体の真ん中にある音を、楽器を介して外に出す、という行為だ。
これが素直に実現すると、気持ちが良い。多分、聴いている側も気持ちが良い。
これは何より、身体の出来次第なのだ。
身体が只今理想的状態に入ったか、あるいはどこかに滞りありか、または全然動いていないか、などが、嫌と言うほど感知される。
ただ、身体を使っている、と感じているうちはまだ理想にはほど遠くて、身体など無くて、ただ、中心の魂だけがある、という状態になる時がベストだ。
歌うという行為に取り組みながら、メロディや歌詞を思い出そうともしない。
音楽的な効果を計ることもなく、とても冷静で、けれど熱狂している、みたいな。
その循環が、強度を違えて波のように起こる。
そのような状態で歌うと、全然疲れない。
循環している。
増殖している。
代謝している。
身体は何でも知っていて、逆に、心はそこから教えられる。
身体を鍛えて、何らかの技量に到ったとき、幾分の自信が確実につく。
頭で考えている時は、何の自覚もできないが、動かした途端、身体に関しては確信が持てるのだ。
首タオルが湿るほど汗をかいて。
それが、台風の後、突然肌寒いくらい涼しくなって、その2日程の間、体調がひどく悪くなった。
頭痛がして、目の疲れが痛いほどに自覚されて、身体がバラバラ。
各部分が別々に冷えて、痛く、辛い。
初夏から本格的な夏に向かって、徐々に汗をかく身体になって行く。
だから、暑くなり始めから1週間くらい、じっと我慢で汗を出すと、やがて相当暑くても体温調節が上手くできるようになる。
けれど、今回のように一挙に10数度も気温が下がると、身体は強ばって固まってしまう。
こういう体験をすると、日々の身体の使い方や、精進を工夫することは、全く無駄などではなく、機嫌良く生活する上での基本なのだと実感される。
先週の金曜日、伊東豊雄さんの土曜教室番外編、中沢新一先生のお話2回目に出かけた。
今回のお話は、心をラカン的モジュールにした図から始まった。
モジュール中心に位置するメビウス状の部分に存するものと、表面に向かって存するものの、階層的な質の違い。
中心には言語化すらされていない情動そのものがあり、そこから表面に向かうに従って理論化、言語化が推進される、というお話。
中心は、言うなれば芸術的カオスとエネルギーの場だ。
外周に至っては、人間社会のうちでも極端に感情を排したもの、例えば法律文などとなる。
そして、中心から直に出てくるものの代表は音楽なのだそうだ。
中心からダイレクトに出るものの割合が多いほど、芸術としては力がある。
この話を聞いて、これまで長い間考えてきた、様々な演奏スタイルや音楽の捉え方の個人差、好みの差が何によるかについての、解答のひとつだと思えた。
演奏を、中心からダイレクトに出せるようになるまでには、長年にわたる経験が必要だ。
この時の状態は、ちょうど、瞑想が極まる感じに近い。
それは記憶とか思考を伴わず、身体の真ん中にある音を、楽器を介して外に出す、という行為だ。
これが素直に実現すると、気持ちが良い。多分、聴いている側も気持ちが良い。
これは何より、身体の出来次第なのだ。
身体が只今理想的状態に入ったか、あるいはどこかに滞りありか、または全然動いていないか、などが、嫌と言うほど感知される。
ただ、身体を使っている、と感じているうちはまだ理想にはほど遠くて、身体など無くて、ただ、中心の魂だけがある、という状態になる時がベストだ。
歌うという行為に取り組みながら、メロディや歌詞を思い出そうともしない。
音楽的な効果を計ることもなく、とても冷静で、けれど熱狂している、みたいな。
その循環が、強度を違えて波のように起こる。
そのような状態で歌うと、全然疲れない。
循環している。
増殖している。
代謝している。
身体は何でも知っていて、逆に、心はそこから教えられる。
身体を鍛えて、何らかの技量に到ったとき、幾分の自信が確実につく。
頭で考えている時は、何の自覚もできないが、動かした途端、身体に関しては確信が持てるのだ。
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