kyokotada: 2004年10月アーカイブ

 私は平気なんであるが、ゴキブリが死ぬほど嫌いという人が大勢いる。
 ある女性とエレベーターに乗った途端、彼女の顔が真っ青になり、唇を震わせているので、驚いた私が「気分でも悪いの?」と訊くと、震える指で床の小さいゴキを指した、というようなこともあった。

 北海道にはゴキはいないので、大学入学で上京した折りに初めて遭遇した。
 はじめ、カブトムシが飛んでいると思った。
 床に下りたら平べったい。
 でっかい変な虫だ、と思って「これなーに」と言うと、そこにいた人々、私を見つめて「触っちゃダメ」と怒鳴った。
 それこそが悪名高いゴキブリである、と知ったのはその時であった。
 幼い頃には、トンボだのチョウチョだのバッタだのコオロギだのとりまくり、飼ってみたら共食いなどしたりして、虫の汚い様子は色々見知っていたが、ゴキに関しては無知。刷り込みがないからなのか、未だにその気味悪さってものが全然実感できない。
 ゴキブリホイホイを仕掛けておき、上手くとらまえていると、ウヒヒと嬉しくなってふたを開けてじっと観察してしまう。

 しかし、やはりあれは触ってはいけない。
 油虫と言うだけあって、かなり脂ぎっている。

 さっき、ある書類をFAXした。
 同じものを2件に送った。
 その原稿をふと見ると、小さいゴキが潰れてへばりついているではないか。
 ゴキはFAX・コピー機の中に潜んでいたらしい。
 夕べは寒かったから、中で暖をとっていたのだね。
 眠り込んだところに、いきなり紙が流れてきて否応なく潰れてしまった。
 しかも、その死は、2件ものゴキ大嫌い人間の元に、型押しとなって送られてしまった。
 受け取った2人、卒倒するかも。
 済まなかったね。
 もう、取り返しがつかないのよ。 

 北海道に行って来た。

 音楽友だちのシバ君、ひとし君、さやま君と二十数年ぶりに再会して、飲み食べ歌い、7時間もぶっ続けで遊んだ。
 あまりの懐かしさに、その後数日、思い出すたびに落涙。
 再会した男友達3人は、それぞれみんなエネルギッシュで、近況報告や、今だから話せる青春の日々の真実など、話題も笑いも尽きず、こんな面白い仲間は滅多にいるもんじゃない、としみじみ思った。
 私の高校時代、本当に楽しかったのだ。
 あれは若さゆえかと思っていたが、彼らといたのだから、楽しいはずだ。
 それにしてもよくぞまあ、あの面子が出会ったものである。
 シバ君から、「次に会うときは、身体にきつーいキャンプをしようではないか、疲れてへろへろになって超面白いかも...」とメールが来た。
 私は、翌日早速ジムに行って筋トレに取り組んだ。
 ムフフ、腕が鳴る。
 この感動をいつまでも持続させたらいい歌が書けるかもと、やや思い出しがみつきの守り状態に入らんとしていたら、びっくり、東京でも新たなインパクトに遭遇した。

 それは、「こもっちゃん」と呼ばれるドラマーのおっさんなのだった。
 河内弁でずーーーっと喋りまくり、飲みまくり、笑いまくり、怒鳴りまくり、その対面(トイメン)に座った私は、しかし全然めげず、しっかり受けて立っているのだった。
 こもっちゃんは、自家用のたこ焼き機で、こだわりまくったたこ焼きを作るのであるが、それは、「やっさん」風、いえ、やくざではなく、横山やすしさん直伝の醤油風味たこ焼き。
 多分、明石焼きに近いと思うのだが、それに入れる天かすは、日本橋の三越で調達するものだという。

 こもっちゃんは、女性ボーカルが好きで、私の知らなかった名盤を次から次からかけては、「これ、知っとるかぁ」と訊く。
 知らないと悔しそうに答えてやると、にんまりして、「ええやろ」と自慢げ。
 それがもう、とどまるところを知らず、気絶するまで続くのである。
 いやはや、そのエネルギー、天下無敵。

 この一週間で、濃ーーい人々にばたばたと出会った私は、その間、非常に体調が良いことに気づいた。
 エネルギーが滞りなく循環して、すっきり。
 宿便が出た、みたいな気分なんである。

 恐らく私は、彼らぐらいエネルギー過剰な人といると、楽なんだ。
 突っ込まれて、即座に面白いことを返そうと身構えていたり、常識の範囲を超えたこと、何言われようが動じない自分の泰然自若に気がついたり。
 これがめっぽう面白い。
 私自身はお酒が飲めず、たいてい素面で宴席にいるのだが、酩酊した人と全く差がないテンションでそこにいたりする。
 エネルギー過剰人間は、始終周囲に合わせて自分を抑えなくてはならないので、何だかとっても疲れるのだが、たまに仲間と思える人々と出会うと、ここぞとばかり全開で発散する。
 それこそ、心のヨガ、である。

 こもっちゃん、まっとれやー、また飲みに行くでー。

 音楽仲間は数知れずいるけれど、天才を感じる人にはなかなか出会えるものではない。
 今日は、私が天才と思う人について。

 この話を始める前に、だいたい、「天才」って何だ?

天才というものがどういう形で存在するか、ということについて、定義を語る人に出会ったことがない。きっとそれは実物を目の前にしないとわかり得ないものだし、出会っていても、視点がその人の天才に向いていない場合、気づかないで終わる場合すらあるからだろう。
 知り合い、友人の中に天才はいますか?と訊ねられて、「はい○○さんです」と即答できる人は、きっと少ないはずだ。
 天才の定義そのものが、ひとりひとり違っているし、その天才を理解できる人自体が数少ないはずだから。

 自分の大切にしている分野でなら、運良く、天才を感じ取る基準が育っているかも知れない。
 あるいは、何かの瞬間に神の啓示のようにそれを感じ取るか?

 橋本治氏によれば、人は自分の理解の範囲を超えたことについては、価値判断ができない、いわゆる思考停止状態に陥るのだという。
 自分の理解を超えたことは理解できないし、自分の感性の外にあるものは感じ取れない、実に、聴き取っているはずの演奏は、自分の聴き取り能力を超えることはない。

 分かりやすい例を引けば、外国語。
 知らない言語の意味は分からず、ただの音の羅列にしか聞こえない。

 オーラが見えるとか、幽霊が見えるとかいう能力は、その能力を共有する人には信じられるが、ない人にとってはただのまやかしにしか思えないかも知れず...。

 で、「天才」。
 私の周囲で私がそう呼びたいのは、ギタリストの加藤崇之氏である。
 ギターの演奏は素晴らしい。
 描く絵も素晴らしい。
 一緒にいると存在自体の時間経過が他の人と違っている感じがする。
 私たち凡人は、時間の区切りを頼りに生きているかも知れないが、彼の時間経過は自在に伸びたり縮んだりしている。
 瞬時の感性の動きもあるが、全体どこも止まらず区切れずうねうね続いている。
 何をしていても、アートの感性の部分だけが息づいている感じ。

 つまり、生活全般の時間経過や感受性がアート、表現のための感性につながっているのだ。

 彼は誰とでも偏見なく話すし、子どものために誠意を見せるという普通の父親の感覚や社会性もある。
 だが、普通ではない。

 この感じは、しかし、私に唯一の感想かも知れない。
 きっと、受け取る人によって様々に色が変わる。
 語る言葉も変わる。

 色々な場所で多くのミュージシャンから訊かれるのだ。
 「加藤さんと演奏しているんですよね。いいなぁ、一度ご一緒してみたい」

 そういう、遠慮される「天才」に伴奏してもらって歌うのである。
 凡人の私は、その音楽がコミットメントに溢れたものかどうかも良く分かっていない。もったいないかも。

 彼の凄さというものは、音楽家にもっとも良く理解されている。
 従って、みんな彼に共演を申し込む。
 だから、いつも忙しそうだ。
 ただし、そのジャンルの音楽はポピュラリティがない。
 大変マニアック。
 当然多くのギャラは出ず、毎日ものすごく中身の濃い演奏をし続けているのに、お金持ちにはなれない。

 でも、彼は私と顔を見合わせて言うのだ。
 「でも、この人生にぜんぜん後悔無いよね」
 演奏や音楽をやっていることで享受するHappyは、大きい声では言えないが、唯一無二のものだ。

 音楽家は、請われてやっと仕事の場を得ることができる。
 「天才」は、ギャラの多寡ではなくて魂が「いいよ」と頷く場所に出かけていって演奏し、人を感動させ、自分も満ちながら、しかし慎ましく生きている。

 彼の演奏を聴いたその夜の私は、人間の可能性というものを、改めて押し広げて考え直すことになる。


サービス業

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 人生、何となく生きづらい時というものがある。
 「こんな事していていいのだろうか」
 「こんなに上手く行かないなんて、私、何か間違っていない?」
 色々なことが行き詰まり、疲れ果てて、不安と疑心暗鬼ばかりが心を占める。

 私がしたかったことは、音楽と物書きというどちらも「食えない」仕事、「つぶしの利かない」仕事であった。
 しかも、それらを夢見ていながら、深く考えずに子どもを三人も産んでしまった。
 自分でも何が何だか分からない。
 「生活設計」とかいう言葉を聞くと、首をすくめるしかない支離滅裂である。
 支離滅裂な人というのは、周囲の人をもその混乱に巻き込む。
 「あんたは一体何を考えているのか」
 始終責められ、呆れられ、疎まれ、ついに暖かい応援は得られなくなった。

 突き放されて孤独になると、私はとても人恋しかった。
 誰でも良いからゆっくり話を聞いて欲しかった。
 こちらの話しがただの被害妄想でも、とんでもない思い違いであっても、とにかく話を聞いて肯定してくれる相手が必要だった。
 とても幸運なことに、友だちの何人かが、私の独りよがりなしつっこい話しに、辛抱強く付き合ってくれた。
 逆の立場で私が聞き手なら、ただ「ばかじゃん」と言って冷たく突き放すであろう内容の話だったに違いないのに、本当に辛抱強く聞いてくれた。
 そして、その上、慰めてくれた。
 中には、私が歌わないことを惜しんで、小学校の音楽室を借りてコンサートを企画してくれた友だちまでいる。
 そのことがきっかけで、私はまた歌い出せたのだ。

 一番辛かったとき、支えになってくれた友だちと、最近はご無沙汰が多い。
 子どもたちがそれぞれに巣立っていったり、お互い環境が変わって会う機会が減っているのだ。
 そのかわり、今の私を支えて励ましてくれる新しい友人がたくさんできた。

 人と接すると、イヤなことも起こるけれど、私の場合は新しい場所に踏み出せる機会になることがほとんどだった。
 私は、人の喜ぶ顔を見るのが好きで、人がはしゃいだり、感動したり、笑ったり泣いたりするのを見るのが好きだ。
 何か頼まれると、大変かも知れないけどそれにも増して面白そう、と予感しては、色々なことに首を突っ込む。
 行事を企画したり、食べる会を催したり、飲み会に誘ったり、発表会をしたり...。
 その度にごたごたもするけれど、必ず楽しい思い出ができる。
 その場で新しく出会った人たちがまた別の友だちの輪を作っていたりすると、「やった」と指を鳴らしたくなる。

 人付き合いなんかしなくても自分は立派に生きていける、と思う人もいるだろう。
 でも、私は辛かったときに、お金でも他の何でもない、ただ話を聞いて頷いてくれる友だちに救われた。
 私が参加した仕事で、儀礼的にでも感謝してくれる人たちに救われた。
 だから、自分の人生の在り方を想うとき、なるべくたくさん、皆にサービスしていきたいと望んでしまう。

 私は、家族のために得意の料理の腕を振るうのか好きだ。
 美味しいと顔をほころばせる家族の顔を見るのが好きだ。

 私の歌や書いたものを楽しんでもらうのが好きだ。
 企画した行事でたくさんの人が出会う現場を見るのが好きだ。
 発表会で生徒が緊張したり、高揚している表情を見るのが好きだ。
 そのためのアイディアを練ったり、企画するのが好きだ。

 私自身が辛いときというのは、何かの事情でしてあげたいことができないときだ。
 身体はひとつ、仕事と役目はいっぱい。
 その整理と優先順位に迷うとき、イライラして落ち込んでいたりする。

 どうしようもなくお節介でお人好しというのが、私の生きるコンセプトらしい。
 一時は、ボランティアばかりしているのは阿呆かも知れないと自分に言い聞かせ、やりたいことに目をつぶってもみたが、じぶんの本性であるらしい「サービス業一筋」というところで開き直ったら、長年の迷いが口の中の綿あめみたいにすーっと溶けて消えた。


 人の喜びのために動いているなど、気恥ずかしくて口にできないが、それが私の喜びだということだけはしっかり自覚できている。
 たったこれだけのことに気づくのに、何十年もかかったなんて。
 人間はなんて変な生き物。


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