kyokotada: 2008年2月アーカイブ

 アート という言葉を聞くと私の心の中に浮かぶのは「緑色」と「水」である。
 私の解釈では、緑色は、ネイチャーで、そして水は生命。
 条件をつけないで「アート」と言ってみる。
 心に浮かぶのは何だろうか。
 ゴテゴテしたものを思い浮かべる人もいるし、高価なものを思い浮かべる人もいるかもしれない。
 多分、アートとは、その人の中にある価値である。しかも、もっとも大切な。
あるいは、人が、彼や彼女の生きるときに必要な計算を度外視しても、どうしても好きなもの、のことではないだろうか。
 私の心の中では、いつも自問自答があった。
「これは、本当に価値あるものなのか?」
「私は、これを好きでいても良いのだろうか?」
 私の心は、好き嫌いについて、つい最近まで誰かからの許可を求めていたようだ。その「誰か」というのが何者かは、いまだによく見えないが。
 人は、気づかないまま、許可や基準を求めがち。
 そこから自由になるためのものがアートなのにも拘わらず。
 そして、最近、もっとも工夫しているのは、アートをする時の自分の置き方である。
 自分は、流動する。
 昨日と今日は違うし、色々考えは変わり、思いつきも変わる。
 だから、気持ちよく音やら言葉やらがするすると出てくる状態に自分を保つのが工夫の第一課題となる。
 無駄にいじくらないために私がすること。
 まず、自分にこう言い聞かせる。
「私の中には、色々なものがわんさかと堆積しており、それがほどよく熟成している」
「頭の上から、あるいは心の深いところから何かが降ってくる、あるいは沸き起こってくるのを止めるな」
 そして、心はリズムに乗り、その振幅を感じながらどんどん先へと進んで行く。色々な世間の大変そうなことすら、この方法で発想すると、楽しいことのように思えてくる。
 アーティストとは、およそそれ以外の人々が発想しないことを思いつく人々のことである。勘違いかも知れないが、同じようには悩まず、同じようには苦しまず、同じようには振る舞わない。
 人は、それに触れると、「ああ、そうなんだよね、それなのよね」と気がつく。
 その発想は、相当高いレベルの表現能力や技術がないと作品にならない。発想を自在に出せるまでの、気の長い訓練や打ち込み方が、これがまた、アーティストならではなんだが。
 そういう人々に囲まれて、この年になってみると、これが大変楽なのである。
 だれも、無理はしないし、勝手気ままで。
 でも、素晴らしくアンサンブルする。
 アンサンブルの極意を、時々体験できるだけで、私は大変な人生を何とかこれまで生きてきて良かったと、しみじみ思うのだ。

海との出会い

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 私の会社のスタジオ「トライブ」には、色々面白いオプションがあるのだが、そのひとつが目の前の飲み屋さん「霞朝」である。
 ここには、いつも人がわんさか来ている。
 以前からのお客さんに、1年前オープンしたうちのスタジオのお客さんも参入して、前にも増して賑やかになったみたいだ。
 その常連さんの一人が、私の小樽の高校の時の親友シバ君の大学時代の親友であることが判明。世の中は狭い!と改めて感動した。
 その友達の友達が、この間またその友達を紹介してくれた。
 大きくてスキンヘッドで格闘技する人のように見えるが、じつは、シーカヤックの日本の第一人者ということであった(密かに格闘技の訓練もしているらしい)。
 カヤックは、湖や川を漕ぐものかと思っていたので、シーカヤックと聞いて驚いた。あの、小さい船で海に漕ぎ出すとは。
 名人は、シーカヤックに魅せられた理由と、海に一人浮かぶ心境を語ってくれた。
 それは、広い海の中でどちらの方角に行っても良いという限りない自由であり、しかし、自分なりの航路の計画というある種の創出であり、天候次第では下手すると死ぬという、この世に存在する自分の臨界点を見極める闘いであるという。
 何より、地球の表面に浮いているのだが、船の下には深い深い海があるという実感が良いのだと。

 感動的である。
 私には、その行為が人生と同じもののように思えた。
 右も左も分からずに、世の中に漕ぎ出す。
 自分の船はあるが、何もかも設備はお粗末である。
 それでも、なけなしの道具やら体力やらを尽くして、あちらへ行ってみたり、こちらへ行ってみたり...。
 失敗したり、無惨に負け続けたり、疲弊したり、ぬか喜びしたり。
 そのうちに、知らず自分なりの航路が見えてきて、幾分楽になるかと安心する。すると、その先から嵐が来る。波に揉まれ、風に吹き飛ばされながら、必死に耐えているうちに、気がつくと天の恵みのような穏やかな日も来る。
 その時に至ってやっと、これまで、一日たりとも無駄な日のなかったことに気付く。生きている間中、一日も同じ日はなく、一日も無為に過ごしたと言える日はなかった。たとえ、自分を唾棄した日でも、無力に絶望した日でも、孤独にうちひしがれた日でも、めげず闘い続けてきたことを理解するのだ。
 どこにたどり着くかではなく、たどり着く途上を味わうこと。
 シーカヤックと人生の醍醐味は、なんと似ていることだろうか。

前衛的なボタン

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 受験生の息子がいる。
 私が受験生だったときより、ずっと楽しそうに勉強している。
 偉いなーと感心する。
 たとえ、とっかかりが難儀でも、楽しくなるまで、あれこれ飽くなき追求をしているようだ。
 たとえば、苦手だった世界史は、予備校の名物先生の授業に会って、それこそ目からウロコ、世界が拓けた、とか。
 名調子の講義は、CDにもなっているので、それをipodで聴きながら通学している。
 毎日のニュースで、様々な国の事件が報道されると、必ずその土地で世界史ネタとなることを開陳し、講義してくれる。
 そのようにして、何だかいつも興奮しながら勉強している。
 本当にやりたいのは、英語で、それを使って世界中の人と知り合いたいそうだ。色々な国に旅もしたいそうだ。健康だね。
 
 前置きが長くなってしまった。
 その息子に、コートのボタンが取れたので付けておいて、と頼まれた。
 いつもは、明日で良いかとか、いつまでに付ければよいのかとか、先延ばしの算段をする私だが、その日は夜だったにも拘わらず、コンディションが良かったので、快く裁縫箱を出して、速攻付けてやった。
「さっさとやればいいのよね」
 苦手なことを成し遂げたので私は満足し、次からもこういうことはさっさとやろうと心に誓ったりしたのだった。
 
 しばらくして、息子にこう告げられた。
「今日さ、友達が俺のコート見て、何それすげー、と言うからよく見たら、こないだ付けてもらったボタン、裏返しだったよ。俺が着てると、すげー、って感じに見えるらしいよ、前衛的で」

 良いと思ったのになー、さっさとやって。 

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