kyokotada: 2008年10月アーカイブ

 世界が激動している。
 昨日まで常識だったことが、変わる。
 相対的な価値なんて、単なる情報だったり、自分の思いこみだったことに気づく。

 音楽のジャンルというものがある。
 クラシックがあって、ジャズがあって、ロックがあって、民族音楽などがあって...。
 そのヒエラルキー感覚みたいなものが、各人の無意識下にあり、それぞれのジャンルのミュージシャンはその発露のために、相手によっては威張ってみたり、逆に卑下してみたり、色々忙しい。

   私の知り合いには、ものすごく色々なジャンルの音楽家がいる。
 見ていると、私が面白いと感じる人ほど、既成のジャンルにとらわれない方向に進んで行く気がする。
 きっと、ジャンル自体が、わかりやすさを好む現在の時代の申し子だから。
時代は必ずその背後に権力体制による社会の前提を含んでいる。大衆が知識を豊富に満喫する文化を提供したいと考える現在の日本。
 でも、分かりやすいということは、難しいことを置き去りにしてしまうことでもある。
 難しいこと...時間がかかること、丁寧に学ぶべき事、じっくり考えたいこと。
 人々は、さんざんその提供を享受して、基礎ができて以来、権力側が「易しく噛み砕いてあげましょう」と親切ぶることを警戒し始めている。
 「いやいや、じつは、そんなに簡単ではないでしょ」
 言い換えれば、反抗し始めている。

 提供側が揺らぐと同時に、境界線(ボーダー)は無効化される。
 音楽ジャンルも、アートの前衛性もみんな。
 ある意味、これは二律背反であり、ボーダーが在るからこそのコンセプチュアル・アートが、ボーダーレスの影響で無効になる、という事。

   そんな激動の現在かも。
 わくわく。

知識から離れて

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 長く生きていると、色々なことを知識として知ってしまう。
 けれども、知識は筋肉とは違うな。
 歌っているとき、知識はいらない。
 というか、さんざん、知識で歌って、歌って、歌い倒して、ある時から知識はいらなくて、心とか体の筋肉だけになるときがある。
 ここで言う筋肉とは、どこまで行ってもメタファーだけれど、もう、いい加減、頭が満載になっている感じなので、それは放っておいて、私はただそこに、立っている。すっと立って、すっと歌う。そういう気持ちよさが分かってくる。

 仕事では、若い人たちを叱ってばかりいるような気もするが、それは、わたしが色々なことを知って、その上での頭や体の使い方が、若い人たちとは色々違うので、しばしば困ってしまうからだ。
 困ると、エネルギーが鬱屈して、怒りたくなる。
 イライラするとか、むかむかするとかとは違う。
 この高ぶったエネルギーをどこに発散すればいいのさ、と困る感じだ。
 仕事がはかどっているときは、自分は、ちょっと凶暴だとも思う。
 アグレッシブ、というやつだろうか。

   この間、札幌に行って友達に会った。
 シバ君によると、世の中に向上心とか、達成欲のない人間が存在することを、この年になってはじめて知り、驚愕した、ということであった。
 類は友を呼ぶので、札幌で集まる4人は、みんな可笑しいほどに挑戦的だ。
 大病から生還して健康な人以上に精力的に仕事をしたり、ママチャリで札幌と旭川を往復したり、20kg以上減量したり、とみんな激烈である。
 そういう仲間からすると、まったりした人々は、いったい何を恃みに生きているのかよく分からない、不思議な人々に見える。  けれども、多分、まったりした人々は、私達のような種類の人を見ると逆に、何でああいつも切羽詰まっているのか、疲れないんだろーか、気が知れないなぁ、と思っているかも知れない。
 日向の水みたいに、とろ~ん、と生き続けている人々もいる。
 ほんとに、とろ~ん。
 その密度の違いみたいなものが、とても不思議だ。

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