「気持ち悪さ」について

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息子が、連続殺人事件を題材にした映画を観てきて、困った感じで訊く。
「ああいうの観て、優れた映画だって興奮してる文化オタク的先輩とかいるんだけど、本当にそうなんだろうか」
確かに、大新聞の映画評ですら、エキセントリックこの上なく、グロさでは吐き気を催すような映画を採り上げては絶賛する批評家がいる。

世の中には、それほどのことが起こりうる、という示唆ではあろうけれど、できれば観たくはない。
私は息子に言った。
「人間には、ハード自体が壊れている個体もある。察したら、逃げておくれ。ゆめゆめ興味を抱いたり、観察などしないように」
息子曰く。
「同感である。犯罪に、環境や生い立ちを原因にする説もあるが、それ以前に壊れている人がほとんどなのでは」

人道主義というものがあって、どの人も善意や愛情を隠し持っているという錯覚がある。善い心は、どの人にも平等に備わっているので、もし、不幸にもそれら天賦の感情が隠れている時は、親切と愛情をもって心をこじ開け、彼らの資質に光を当ててあげないと...。
平和な人々は、そういうことを信じる。

それが事実であれば、どんなにいいか。

人間は、自分と同類を察知できないと危ない。
そう見えなくても、水槽の中の熱帯魚と同じで、先天的に愛情のない個体は、心の優しい個体を食い散らすものだ。
その現実は、わざわざ映画にしなくても自明ではないのか。

あるいは、その現実を、虚構だとしか思えない、恵まれた環境にいる人々だけが、何らかの危機意識を抱いてそのようなものを観たがり、感動してみるのか。

危機と一緒に生きている自覚があれば、楽しいことの方に食指を伸ばし、自分を救うために命懸けで精を出すと思うのだが、どうなんだろ。

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このページは、kyokotadaが2011年2月24日 11:52に書いたブログ記事です。

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