Twitterをやってみた

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息子がi-phoneを見ては、友人がライブに行くそうだとか、レアなイベントがあるらしい、と言うので、何を見ているのかと訊けば、Twitterだった。それは、様々な人が短く呟くことを、好きなように呼び出して読むことの出来る仕組みらしく、有名人でも友人でも、Twitterを使って呟いてさえいれば、断りもなく、勝手にアクセスできる仕組みなのだそうだ。

私が呟くのは、このブログで充分だと思っていたので、まずは、ファン心理。好きな作家やアーティストに本当にアクセスできるのかを知りたくて、幾人かに「フォロー」ということをしてみた。
すると、本当に呟いていた。

私の好きな人々が、ランダムに色々呟いている。

しかし、メディアに関しては、どうしたって古い体質のままで受け取ってしまう私。
画面にずらりと表れるその「人々」の並びが、どうしても自分のセレクトである、ということが信じられない。人を選んでいるのが、つまりそのページを編集しているのが自分である、という感覚に馴染むのが、まずは大変なのである。

こうしてみると、人のつながり方は、どんどん変わるのだ、と思える。長らく、文章は出版社なりのメディアが、多数の読者を見込める人に発注して原稿となり、その後も印刷までの直しやら校正やらの長い道のりを経てやっと製品となり、さらに流通を介して店に並び、それからやっと私の目に届いていたのだ。それらの手間暇をかけても値のある文章であるはずだと信じて。

その、製品に至る以前の時間帯が、Twitterにある。
製品を作る以前のああでもなくこうでもない、みたいな混沌の時間帯。

それを、私はパソコンとI-Phoneで暇つぶしのように読む。
つい、呼び出された互いが、何の関係性もないのに、文脈が発生しているような錯覚を、そこに読み取ろうとしていることに気づく。
ここでの文脈は、メディアにではなく、私の中に生まれている。
その外と内のバウンダリーの捉え方を、変えつつ馴れて、自分の存在認識も少しずつ変わっていくみたいだ。

馴れてくると、呟くのは発想をメモしている感じだ。メモしながら、自分が興味を持ってフォローしている人々の呟きに呼応したり、アイディアが広がったり、考えの道筋が多様化したりする。

一人で考えている事を止め、会話しながら考えている、みたい。


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このページは、kyokotadaが2011年2月21日 10:55に書いたブログ記事です。

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