臨床心理学に「喪の作業」と呼ぶセラピーがある。
主には、近親者や友人を亡くしたとき、その喪失感から立ち直るための心の作業だ。
喪われるものは人だけではない。
仕事、家庭、愛情...。
「作業」という用語が馴染まないならば「こころのはたらき」と開いてみてもいい。
傷ついたり、疲弊した心が、少しでも健康を取り戻そうとする方向にはたらくよう、方向指示し、エネルギーを作り出す行為である。
セラピーは、「癒し」とか「元気を与える」ものと誤解されやすい。
心をマッサージしたり、ビタミン剤を与える、という考え方。
だが、私自身は、そのようなカンフル剤的救済まがいは、時に依存を引き起こすことを疑って、本能的に遠ざけていた。
「喪」から立ち直るには、自分に力をつけなくてはならないはずだ、というのが私の仮説だった。
体力、脚力、精神力、何でもいい、自分に力を欲しいと思った。
思春期から一貫して、心が進みたいと思う方向に素直に従ってきた。
音楽や心理学を巡る学び、あるいはその周辺の楽しみ、沢山の友人、そして仕事。
「喪」はたびたび巡ってきたが、日常との比率から見ると少ないかのように感じられた。
打ちひしがれては、また立ち上がり、しばらく活力を湛え、しかし、再び打ちひしがれ...。
それが、この数年は、「喪」が明けないうちに次の「喪」が来るのだ。
新たな「喪」は、それ以前の、まだ明け切っていない「喪」の上に覆い被さって、何もかも一緒くたに混ざり合い、呆然とするほどの大きさに広がっていく。
日常は、「喪」に浸食される。
かつてなら数週間、長いときには数ヶ月は存在したと記憶する日常が、今では一日の中の数時間になっている。
それでも、その数時間が救いだ。
その数時間を作り出すために、「喪」から目を逸らさないようにしなくてはならない。
事実に直面すること。
自分の脆弱さを知った上で、可能な限り現実に直面すること。
そうしながら、自分のキャパシティーを知ること。
一日わずか数分間でも、心が晴れた、ポジティブに考えられた、と思えることに感謝しつつ。
主には、近親者や友人を亡くしたとき、その喪失感から立ち直るための心の作業だ。
喪われるものは人だけではない。
仕事、家庭、愛情...。
「作業」という用語が馴染まないならば「こころのはたらき」と開いてみてもいい。
傷ついたり、疲弊した心が、少しでも健康を取り戻そうとする方向にはたらくよう、方向指示し、エネルギーを作り出す行為である。
セラピーは、「癒し」とか「元気を与える」ものと誤解されやすい。
心をマッサージしたり、ビタミン剤を与える、という考え方。
だが、私自身は、そのようなカンフル剤的救済まがいは、時に依存を引き起こすことを疑って、本能的に遠ざけていた。
「喪」から立ち直るには、自分に力をつけなくてはならないはずだ、というのが私の仮説だった。
体力、脚力、精神力、何でもいい、自分に力を欲しいと思った。
思春期から一貫して、心が進みたいと思う方向に素直に従ってきた。
音楽や心理学を巡る学び、あるいはその周辺の楽しみ、沢山の友人、そして仕事。
「喪」はたびたび巡ってきたが、日常との比率から見ると少ないかのように感じられた。
打ちひしがれては、また立ち上がり、しばらく活力を湛え、しかし、再び打ちひしがれ...。
それが、この数年は、「喪」が明けないうちに次の「喪」が来るのだ。
新たな「喪」は、それ以前の、まだ明け切っていない「喪」の上に覆い被さって、何もかも一緒くたに混ざり合い、呆然とするほどの大きさに広がっていく。
日常は、「喪」に浸食される。
かつてなら数週間、長いときには数ヶ月は存在したと記憶する日常が、今では一日の中の数時間になっている。
それでも、その数時間が救いだ。
その数時間を作り出すために、「喪」から目を逸らさないようにしなくてはならない。
事実に直面すること。
自分の脆弱さを知った上で、可能な限り現実に直面すること。
そうしながら、自分のキャパシティーを知ること。
一日わずか数分間でも、心が晴れた、ポジティブに考えられた、と思えることに感謝しつつ。
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