心理学の有効性はいずこに

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今から30年程前だが、大学のゼミで、アメリカのサリヴァンという精神科医の本を購読した。
「現代精神医学の概念」
みすず書房の名前をその時心に刻んで、卒業後もずっとフロムやレインなんかを読み漁った。
しばらく経つと、何が何やら分からなくなった。
自分の問題と、書かれていることのつながりが分からない。
ちょうど人生も苛酷な時だったので、友だちになった精神科の女医さんに勉強の方法を相談したら、彼女が通っている臨床心理学の研究所を紹介して貰えた。
ほとんどの研究生が、大学院生か専門家で、私のようなフリーランスの主婦は皆無。
呆れられ、訝しがられながら試験を受け、勉強を初めてもう15年くらい経つ。

心理学は、人間の心について、その成り立ちや働き方を知ろうとする学問だ。
心はただの抽象概念でしかない。
もとより、形はなく、有機的で変化も激しい。
眼には見えないが確かに存在するもの。
空気というものがある、と定義したときのように、心というものがある、と定義し、それに対して様々な角度から理論化できないか、と仮定し続けるのが心理学だ。

確実に学問として成立させたのは、言うまでもなくフロイトだ。
心を図解して見せた。
(フロイトを思うと、私の頭の中に19世紀末のウィーンの音楽が鳴り響く。あるいはエゴン・シーレの絵画が浮かぶ)
その畏友がユングで、フロイトの心の模型が「個」に属すものである処を超え、集合の心、他者と底流を共有する心の有り様を提示した。
ここから、あたかもダーウィンの進化の樹のような枝分かれと発展が起きる。
近年は、ラカンも人気ですね。

心理学はどこまで行っても基礎学問なので、それを学ぶと幸福になる類のものではない。
では、何のために学ぶのか。
それは、私にとって、内面的な家庭のようなものなのだ。
そこには共に学ぶ人々がいて、教師たちがいて。
私の知識や理解を提供できる人々もいて。
何より、「考える」という行為の拠り所になっている。
体系づけられた判断があるので、自分の変化を確認できる。
現実の家庭は暮らす場所で、学びの場は自分を観る場所というか、あるいは、自分の成長や変化を確認する場所。

15年も勉強してみて分かったのは、文学でも哲学でも政治学でも法学でも、突き詰めたところに存在する問題は同一で、入り口や道筋が異なるだけだ、ということ。
私が心理学の勉強で掘り進めた分、読書の理解が進む。
政治の成り行きや、仕事の進め方などでも、心理学から理解や方針のヒントを持ち出す、あるいは適用することも多い。
つまり、私が選んだ「よりしろ」なのだろう。

今、原子力の扱いが人類の大問題だ。
そして、心理学関係の人々も、この問題をどう内在化するかで激論中。

それは、「原子力」という、思いついてしまったのだが、的確な運用が大変に難しいシステムに、生身の人間、寿命が限られた人間として、個々にどうアプローチするか、という問題だ。
理科系も文化系も、それぞれが「個」という、生活者の立場で発想する。
そして、自分から広がる同心円のどの辺りまでを守りたいのか、無意識に判断しようとしている。

もっとも、これはまだ的確な方法を採っている場合であって、中には、テレビを判断の基準にしている人たちもいる。茶の間に届く情報の量だけが判断基準、という恐ろしいセレクト。けれど、人は自分が見たいものしか見ない。

私は、原子炉が現在どんな状態なのかよりも、これが起きてしまった今後、日本であるいは世界的にどのような価値観が主軸となりうるか、の方に興味がある。
何しろ、「テクノロジーは、悪用されない程度のものでは役にも立たない」という言説にひどく納得してしまった。
原子力を神の火と見て恐れおののき見ないことにするのか、糾弾し拒否し続けるのか、あるいは人間に扱える程度の規模なり運用方法なりを模索し構築し直すのか。
それを選ぶのは誰なのか。
テクノロジーは経済の奴隷か、それとも人の要請か。
日々、色々なことを夢想する。

話は飛ぶが、近未来SFでは、ほとんどの場合大事件を引き起こしているのは「個人」である。
どんな大事件も、たったひとりの「アナーキーで無感覚な」あるいは「特異なルサンチマンに満ちた」しかし「人並み外れて優秀な」ひとりによって引き起こされる。
ひょっとすると現実もそうだったりするか?、と夢想する。
たとえば制度のトップにいる、静かで落ち着いた狂人。
私たちの運命が、じつはそのひとりに委ねられていることを誰も知らなかったりして。
だって、そのトップの周囲の人々は、心理学の知識、もっと言えば自分や他者の心理査定をする知識がないはずなのよ。
怖〜い。

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このページは、kyokotadaが2011年6月15日 10:45に書いたブログ記事です。

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